「いいってなんだろう?」

「いくたびも雪の深さを尋ねけり」とは、正岡子規の俳句ですが、筆者は先週末風邪をひいてしまい二三日寝込んでいました。そこでふと頭をよぎったのがこの俳句でした。風邪で寝込んでいると妙に外の様子や気配が気になってしまうものです。今日は晴れているのだろうか?とか風は強いのだろうか?とか星は見えるのであろうかとかなんとか。子規は尋ねる人がいたのでよいですが、僕は尋ねる人もいないので妄想していました。まあ、起き上がればいいだけなのですがね。

高橋源一郎さんの『非常時のことば-震災の後で』という本の中で、小林秀雄の「じっくり花を見てみよう」といった趣旨の言葉が紹介されています。道ばたに咲いている花をじっくりみてみる。なんだハナかと言った瞬間に花は死ぬ。なまじ私たちは言語でモノを認識できるので、そこに咲いていた花はその個別性を一般言語の抽象性の中に回収されてしまう。だからこそ、小林秀雄は「じっくり花を見てみよう」といったのです。花”それ自体”(この言葉には重大な哲学的なテーマがあるのですが今回はふれません)を見てみよう。そうすることで道ばたに咲いている花も全く見え方が変わってくる。もしかしたら道ばたに咲いていた美しい花に慰めてもらえるかもしれない。邂逅です。こういう風に日常を一旦”切断”してみると、私たちは全く異なった世界に足を踏み入れることが出来るかもしれないです。風邪をひいたことで、日頃気にならなかった世界が気になって仕方がなくなる。近頃、あたりの木はすっかり色づいてきましたが、高尾山にも嵐山にも行かなくても、少し立ち止まってみることで、美しい紅葉を見ることが出来る。ようは認識の仕方だということです。
あっ、ご無沙汰してます。鶴竹です。

では、本題に入りましょう。

「いいってなんだろう?」というたいそうな問いを設定したわけですが、僕自身よく分かってないことに気づいたので、というよりいまの自分にこの問いに答えられるような蓄積はないので、今の段階で思うところを述べたいと思います。
スピノザによると、<善>や<悪>という概念の前に、<いい><わるい>という感情のようなものがあるようです。<いい><わるい>というのは、簡単に言ってしまえば、自分の状態が向上するか・しないか。例えば、あなたが風邪をひいたとしましょう。そのときあなたにとって風邪薬は<いい>ものであります。しかし、病人でもない人が風邪薬を服用することは副作用しかおこらない<わるい>ものであります。つまり、あなたの体にとってプラスになるもの・あなたの力を増すことができるものが<いい>ものなのです。<わるい>はその逆です。<善>や<悪>などは誰かにとっての<いい><わるい>を社会的に押し広げたものにすぎない、だから、<善>や<悪>は押し付けられたものにすぎないということです。だから、<善>と<いい>が必ず対応するとは限らないのです。個々人にとって異なる<いい><悪い>を一元的に<善><悪>に還元してしまう。そしてその<善>なるものや<悪>なるものは、ただそれが<善>であるが故に、あるいは<悪>であるが故にその地位を保ち続けてしまうのです。例えば、道徳の授業で「太郎君は花子ちゃんが泣いていたので慰めてあげました。」という文章を見たとしましょう。そこで多くの小学生は太郎君はいい子だとか偉いとかいうと思います。先生も太郎君みたいな子になりましょうねとか言うかもしれません。子供たちは自らそれを内面化し、上にあげた行為を当然のこととして<善>だと考えます。しかし、もし花子ちゃんは一人で泣いていたかった、そして太郎君は急ぎの用事があって本当は慰めている時間がなかったとすると、この場合、お互いにとって<いい>ことにはなってないのです。
極端ですが十分に考えうることです。実際に慰めたら嫌われたということを経験した方は少なくないのではないでしょうか。
日常生活はよくわからない。いままで<善>だと思っていたことをやったのに相手に喜ばれなかった。
<いい>と<善>には相当な乖離がある。そして、<善>なるものはかくほどまでに頼りない構築物である。
<いい>が無数にあるのと同様に、<善>も無数にあり得るのです。
そして、人間は自分にとって<わるい>行動をとろうなんてほとんど思わないので、みんなが自分にとって<いい>行動をとろうとする。そして、そのことを私たちは<善>という観点からは批判できない。

では、何でもやりたい放題かというとそうではない。好き放題やっていたら社会が成り立たないからです。そこで、用いる概念が<最高善>だとか<正義>だと思います。こうした概念によって<わるい>-<悪>を淘汰し、<いい>-<善>を陶冶するのです。私たちはどういう人間本性を持っており、どういう社会を構築するのが”自然”なのか。どういった社会に住んでいたいのか。先ほどの例で<善>と<正義>について考えてみましょう。「太郎君は花子ちゃんが泣いていたので慰めてあげました。」は<善>であり得たとしても、<正義>ではあり得ません。なぜなら、泣くという行為は非常に個人的なものであり、それがために多様であり得るからです。「多様な社会を」と最近よく聞きますが、それだけではだめなのです。よく考えなければならない。なんでもありの社会を目指すと、混乱が起きてしまいかねない。<正義>の概念でその多様性を陶冶する必要があるのです。淘汰ではないのでご注意ください。下らない事業やプロジェクトを多様であるというだけで称揚したり、支援するなどは<正義>の観点に照らして考えてみる必要があると思います。
<善>という概念に比べて<正義>というのはもっともっと深くそして広いのです。<正義>はより、万人に適用しうるような概念であり、深い人間理解に基づいているからです。こうした文脈の違いをしっかり考えなければならないと思います。<正義>には<法>のような普遍的性格があるのです。一般法則が働いていると言ってもいいでしょう。だからこそ、ある体制下において、国民はその法体系に服従しなければならないのです。こうした概念の発達とともにあったのが社会契約にまつわる議論だと思います。そして、法も社会契約にそったものでなければならないのです。
このまま、社会契約と正義について考えると長くなってしまうので、次回に譲りたいと思います。
最後の方は駆け足になってしまい申し訳ありません。あと、です・ます調とだ・である調が混在していますが、気分を示したいのでそのままにしておきます。
まとめましょう。<いい>と<善>は乖離の生じうる概念であるということ。<いい>の方が人間の充足には根源的であること。<いい>は外部による価値判断が必要ないこと。<善>はある意味で押し付けられたものであること。本来的に<いい>-<善>は一意に決まらないこと。<善>は意外とたよりないこと。<いい>-<善>は<正義>で陶冶する必要があること。
自分自身まとめきれてないので、なんだか釈然としませんが僕はこう考えます。あなたはどうかんがえますか?

今回のおすすめの文献
スピノザ 『知性改善論』『エチカ』
ジル=ドゥルーズ 『スピノザ-実践の哲学』
フリードリヒ=ニーチェ 『ツァラトゥストラ』『道徳の系譜』
ミシェル=フーコー 『監獄の誕生』
高橋源一郎 『非常時のことばー震災の後で』朝日新聞出版

おすすめの本に関しては随時更新します

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