スリランカ人との対話。心に深く突き刺さった5つの言葉。

こんにちは。かめきちです。実は12/1からスリランカに来ています。スリランカはインドの南東の方にある小さな島です。昔、イギリスに統治されていたころはセイロンとも呼ばれ、セイロンティーは世界的に有名なのでご存知の方も多いのではないでしょうか。

今回、スリランカには経済産業省のプログラムで派遣され、スリランカの高等教育システムを理解し、(日本にはほぼ情報がないので)精緻なレポートを仕上げて(政府と大学に)提出し、もし余力があればスリランカの高等教育をさらによいものにするために提案するところまでもっていくのが僕の使命です。加えて、ミクロレベルで教育をなんとかましなものにするために、何らかの教育ビジネスのモデルを構築して帰ろうと思っています。

今日のブログは、そんな本筋とは全く関係がありません。狭い意味での教育の話は全くしません。だけど、僕がこんなことをいうのはなんだけど、もっと大事なものがここにはあります。僕ら、豊かな日本に生まれて、中間以上の生活を享受している人たちは、今一度、自分の人生や生活を考えなおさないといけないところにまできている気がします。

話は、僕が現在調査に入っている大学の教授と仲良くなった所から始まります。スリランカでは、仲良くなるとすぐに色々なところに誘ってくれます。折しも、昨日(12/6)はポーヤ・デーという満月の日の仏教の聖なるお祭りだったので、教授の方は仏教に関するあるイベントに誘ってくれました。教授の住んでいる地域でお金を出し合って、スリランカでも貧しい極貧に地域に、小さな仏陀像を設置するセレモニーイベントです。僕はそのイベントに参加し、様々な人と対話し、これから一生考え続けなければならない問いに出会いました。

今日のブログでは、イベントを時系列を追って紹介するのではなく、スリランカの現地の人との対話、それも大学教授が住むような都市知識人階層と、生活のインフラも整っていない山の上に住む極貧階層の両極端な二つの層との対話を通して、僕がはっとさせられた、喉元につきつけられた冷たい刃みたいな言葉を紹介していきたいと思います。

問いは、1から5の順番に鋭さを増します。最初はマイルドに。だんだんスパイシーに。

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1、「君は日本人だ。君は歓迎されている。」(You are Japanese. So, everyone is glad because you came to this place.)

一つ目は、「君は日本人だ。君は歓迎されている。」という言葉。今回のイベントを主催している教授の住んでいる地域コミュニティの代表の方に言われました。僕が、Thank you for inviting me. と挨拶したときに返されたのがこの言葉。日本人はスリランカでは発展を完遂した国として尊敬されていて、同じ仏教国として共感を持たれています。

さらに、この前いったヴィパッサナー瞑想で仏教理論を学んだことから、サンカーラとかアニッチャ―とかの仏教用語を理解できるので、仏教理論の対話の中にも入っていけて、気づいたら、仏教をちゃんと理解している日本人が日本から来てくれたということになって、なぜか来賓席に座っていました。なんでやねん。

セレモニーの花を添える場面では、なぜか教授でさえ花を一輪しか持ってなかったのに僕は花束をお供えする大役を気づいたら任され、普通の人が話しかけてはいけないお坊さんの隣の来賓席になぜか座らされ、カレーもなんか特別なのをもらい、とても皆よくしてくれました。

そのおかげもあって、皆が僕との対話に応じてくれたのだとしたらとても得をしたなと思います。日本の先人が積み重ねてきたものを、僕ら若者は今一度確認し、それを後世にわたしていけるようにしなければならないのかもしれません。(一方で、ジャヤワルダナ故スリランカ大統領のことも知らない日本人が多いのは問題なのかもしれません。)

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2,「日本人とスリランカの人、比べたらスリランカの人が幸せそうに見える。スリランカの人はモノはもってないが、足るを知っている。日本人はモノに囲まれているがココロがいつも寂しそうだ」

続いてお坊さんとの対話。なぜか来賓席に座った僕は、式典の後半、スピーチタイムの間、お坊さんと対話することができました。禅と禅宗の話し、日本の仏教とスリランカの仏教の違い、上座部と大乗仏教など、様々な論点を対話できて、とてもよかったのですが、一番胸に刺さったのがこの言葉です。

確か、「日本人とスリランカ人は似ているところが結構あるというのが僕の意見です」と僕が話した時だったような気がします。このお坊さんはスリランカの寺で住職をしつつ、日本の千葉にあるお寺でもお勤めになっておられます。だから、日本語もシンハラ語も、日本人のこともスリランカの人のことも分かる稀有な方です。

そのお坊さんが、スリランカ人の方が幸せそうに見えると語ったのです。そこには幾分かの真実が隠されているように感じられます。物質的な繁栄が精神的な繁栄を保証することはないというのは一種の言い古された、干からびたフレーズだけれども、その点について本気で考えると日本で暮らすのが困難になってしまうがゆえに、なかなか突き詰めて考えることができない論点でもあるような気がします。

いったい僕たちは、なんのために、こんなに必死になってものを増やしているのでしょうか。僕達が、あいつは努力していないと揶揄するとき、その「あいつ」はお金を稼げず、モノを持つ能力がないということを指すことがほとんどですが、お金を稼ぐ能力を持つことだけが努力することの意味なのでしょうか。あるいは、所有権が神聖化されてきたのはなぜなのでしょうか。

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3,「安全が一番。安全がなければ、経済がいくら発展しても意味がない」(Safty is First. Without safety, how can we lead a life?

スリランカでは大統領選挙が来月あります。だから、対話の中でも必然的に大統領選挙の話題になります。この言葉は、「今の大統領の政策についてどう思うか?」と問われた時に出てきました。

今の大統領はスリランカで長く続いていた内戦を2009年に終結に導いた大統領です。国民的英雄でもありますが、内戦の終結が武力によるものだったことで欧米や日本から非難されたり、政府の要職を親族で独占していたりと批判も多い大統領です。

スリランカ人にとって内戦の記憶はとても新しいもので、内戦がいかに生活を脅かすかということを身を持って知っています。だからこそ、目先の経済成長や物的豊かさを追い求めることなく、なによりも安全を一番にして考えることができるのだと思います。人間は、ほんとうに大切なものは、失ってからでないと気づけません。スリランカの人は、大切な「安全」というものを失った痛みを知っているからこそ、それを大切にできる。

私達日本人は、「日本はあまりにも平和で安全すぎる」と自分たちを揶揄します。だけども、平和すぎるのは、本当に悪いことなのでしょうか。平和で安全なのをモデルにして、それこそこの分野では世界で一番なのだから、世界をリードしていくべきなのではないでしょうか。経済・物的豊かさ至上主義から脱却しうるポテンシャルを日本は持っているのではないでしょうか。そのポテンシャルは、最近、日本人自らが捨て去ろうとしているものであるような気がしますが。

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 4、「ねえお兄ちゃん。日本では、社会の底辺に生まれた子供が、上にあがることができるの?教えて。」(In Japan, can we poor people go upper?)

これは、胸をえぐられる問いでした。僕がこのブログの記事を書こうと思ったのも、この一言があったからでした。僕が行ったのはスリランカでも、貧しい極貧地域。村人は山の上に住み、農業をして暮らしています。学校からあるいて30秒のところに牛が放し飼いされています。

そんなところにも子どもはいます。その村のこどもと対話をはじめ、名前を聞き、名前を聞き、その後すぐに、対話の一番最初にでてきたのがこの言葉です。この言葉を聞いて、僕は少しすくんでしまいました。この言葉自体の鋭さも相当なものですが、この言葉が対話の最初にでてきたということい僕はとてもショックを受けました。さらに、この言葉を発した子供の境遇を考えると更に、衝撃的です。

この言葉の深刻な雰囲気とは裏腹に、子どもたちは対話を終えると、元通り、鬼ごっこを再開しました。だけど、そんなはつらつに運動する子どもたちの心の中には、「どんなに頑張っても、上に這い上がれる社会ではないのなら、勉強とかを頑張る意味はない」という叫びがあることも知ってしまいました。

「日本は学歴社会だ」「大学入試がペーパーテストで正解主義だ」という批判はよくあります。だけど、学歴社会でペーパーテスト一本だからこそ、どんな地域に生まれても、努力さえすれば、上に上がれる。ペンと頭で、上に這い上がっていける。そんな期待が人々からなくなった社会(階級が固定された社会)に日本がなったとき、何が訪れるんだろうとは思います。文化資本とか他の論点もありますが、ペーパーテスト学歴社会が必ずしも悪いわけではないということ、それは這い上がる機会を保証しているのだということを再考する必要があると思います。AOや小論文などの個性(というより経験)が重視される入試では、今よりも如実に育ちの差が強く影響するという事実も知っている必要があります。フランスの大学受験の哲学の論文試験なんて、僕はいい試験だと思いますが、それとて幼いころからの親の影響がとても強いということは教育の議論をするのであれば知っておくべきだと思います。多様性と社会階層の流動性が実は一部はマクロレベルで見るとトレードオフの関係にあるのかもしれないということは、教育学を修める者としては知ることができてよかったです。

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5,「なんのために俺たちは生まれてきたんだと思う?なんのために俺らは生まれ変わったんだと思う?」(Why are we born? Why are we reborn?)

村人の一人が言う。「こんなことをやっても意味がない。本当に悟りに至りたいんだったら修業をしなきゃだめだ。お前さんはどう思う?」

僕が答える。「仏陀の教えに乗っ取るならば、仏像の前で手を合わせて祈るのは気休めにすぎない。日本でも、ただ祈りさえすれば来世が約束されると皆信じているけど、仏陀はそんなことはいっていない。だけど、仏陀が言っているように心が安らかになるのはいいことだ。人間社会が成り立つためには、経済活動が必要で、普通の生活の中では修業などできない。だったら、普通の生活をしながらやすらぎが得られるように、気休めでもいいから仏陀の像があり、人々がお祈りできるようになれば、それはいいことだ」

それに、彼が続けます。「お前さんは、頭がとてもいいようだ。俺がいつも考えていることを質問してもいいか?」

「どうぞ」と僕はうなずく。

彼はこう問いかける。「なぜ俺らは生きていて、なぜ俺らは生まれ変わるのだ? 仏陀は悟りに至ったからこそ、生まれかわることなく永遠に命を終えることができた。修業をして、その報酬が生まれ変わらなくていいことならば、俺らはなんで生まれてきてしまったんだ? この世に生まれつくことが苦しいことだと仏陀自らが認めているようなものじゃないか。悟りに至るまで修業できなかった罰が来世でまた生まれ変わることだといってもいい。仏陀は悟りへの至り方はおしえてくれたが、なぜそもそも俺たちが生まれたかは教えてくれなかった。サンカーラ(仏教用語で心の濁りのこと)が生まれ、それが来世に引き継がれるのはなんでだ。なぜ俺らはこんなに苦しまなくてはならない?

僕の答えはこうだった。「ポイントは全てが無常(アニッチャ―)であることを僕達が本当の意味で悟る(realize)することができないことだと思います。僕達は、全てが無常であることを言葉の上では語ることができます。だけど、身体を含めて納得することはできません。全てが無常であることを悟れないからこそ、モノに執着します。執着から心の濁りが生まれます。修業しなければ、濁りを取り除くことはできません。それゆえに、僕らは苦しむのだと思います。僕らが苦しむのは、無常を悟ることができず、執着を捨て去ることができないからです。」

彼は少し反論ぎみに言った。「アニッチャーか。なるほど。それも大事だ。だけども、サンカーラが生まれるのは人間がいるからだ。人間がいなければ、サンカーラは生まれない。俺が知りたいのは、なぜ人間が生まれ、生まれ変わるのかということだ。全ては生まれ変わる。それはそうだろう。しかし、俺の目からみれば、お前さんもそれを覚っていないように見える。お前さんは、みたところとても若い。若いお前さんがこの問いを考えるのには無理があるのかもしれない。」そして、「君はほんとうに頭がいい。またなにかあったら電話してもいいかい?」と彼ははにかんだ。

「もちろんですとも。」僕はそう答え、彼に手を振り、村を後にした。「彼は本当に頭が良い。本も一つもないようなこの街で、ここまで切実な問いを持っている人がいるとは。もしかしたら彼は、この村の長老かなにかなのかもしれない」と考えながら。

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以上、5つの言葉を紹介してきました。

日本人としての歴史を背負って僕らは生きているのであり、ミクロレベルでみれば決して負荷なき個人などではないということ。

精神的幸せは「足るを知る」ということから得られるかもしれないもので、それは物質的繁栄「至上」主義からは得られないのかもしれないということ。

日本は世界一安全で平和な国であり、私達はその中に住んでいるという事実に対して卑下するのではなく誇りをもって発信していくべくなのではないかということ。

階層が固定化され、人々から夢と期待が奪われたとき、社会はこわれてしまうのではないかということ。

僕たちがなぜ生まれてきたのか。そして生まれ変わるのか。そして生がなぜこんなにもたくさんの苦しみをもっているのか。なぜ仏陀が悟ったとき、悟りの報酬は生まれ変わらないということだったのか。それを考えることで、たった一回しかないこの人生をどう生きるかということの指針になりうるのではないかということ。


この世界は、僕らが思っている以上に醜く、汚く、どうにもならないことがたくさんある。だけど、この世界には、僕らが予想しているよりも、はるかに素晴らしい出逢いに満ちている。

 

(かめきち)

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