世界で最もお金持ちが使う宝石を、世界で最も貧しい人たちが採掘している、この世界。【スリランカ、ラトゥナプラ旅行記】

読者の皆さん、宝石はお好きですか?僕はといえば、宝石そのものに大した興味があるわけではないのですが、宝石をあげた彼女の笑顔をみるのが好きだという意味では、宝石から幸せをもらったことは何度かあります。最近の個人的な思考のテーマは「人類の生活を便利にしたのではなくて、人類の人生を豊かに幸福にしたものを生産している会社にはどんなものがあるか」というものですが、宝石はその一つだと言えるかもしれません。また、FINAL FANTASYの申し子(?)と広島の地元の極一部で言われて育った僕としては、宝石といえばすぐにFF9が想起されるところです。

さて、今回の記事は、そんな宝石の原石、世界最高の生産地であるスリランカのラトゥナプラを旅行したときの旅行記です。ラトゥナプラという地は、『アラビアンナイト』のシンドバッドも、『東方見聞録』のマルコポーロも訪れた地であり、ウィリアム王子がケイトさんにおくった婚約指輪はラトゥナプラのブルーサファイアであるといったように、宝石に関わる逸話には枚挙にいとまがない土地です。

スリランカの記事としては、スリランカ人と対話して気づいた5つの大事なことを書いた記事につづいて、二つ目の記事になります。

ラトゥナプラを訪れた僕の心にこびりついて離れないのは、そんな宝石の輝きでも、宝石をプレゼントするためにあれこれ悩む楽しみでもなく、そこにいる人の笑顔でした。そして、笑顔を思い出しながら、実存、存在、幸福…と、最近ずっと考えている問題へ足を進めざるをえなくなりました。

 


 

さて、皆さんは、宝石がどのように採掘されているかイメージできますか?そこにはどんな光景が広がっているか、頭の中で思い描くことはできますか?どんな人がどんなところで、どんなふうに採掘しているのか、分かりますか?

日本にいれば、宝石を買うことなど造作もないことでしょう。大都市の東京にいれば、新宿や渋谷、銀座などに出かければ、自分の気に入った宝石の一つや二つは簡単に手に入ります。それすら億劫な人は、楽天やAmazonを使えば、家にいながらにして購入することもできます。各ジュエリー会社も、最近はウェブサイトを持っていることが多いので、そこから購入することもできます。

購入する際に僕らが何に気をつけるかというと、まずはどの宝石を買うかということでしょう。ダイヤモンドなのかトパーズなのかアクアマリンなのか。そしてカラット数。予算と相談しながら値段も見なければなりません。

そのようにして購入した宝石は、自分で身に付けるなり、家に飾っておくなり、プレゼントするなり、多種多様に僕らの人生を彩ってくれます。別に、宝石がなくても死にはしないのですが、宝石があることで、僕らの生活が豊かになっていることは否定しがたい事実でしょう。

だけど、宝石は自動的に湧いて出るものではないのです。一部の宝石を除けば、宝石は工場で大量生産されているものでもない。宝石はあくまで採掘するものです。狩猟採集経済をはるかに通りすぎたと思っている僕らの近代経済は、その中の一部に、小さいですが狩猟採集経済を含んでいます。そこには人間がいます。宝石は自然の中から生まれます。

それではもう一度、問います。

皆さんは、宝石がどのように採掘されているかイメージできますか?

 


 

僕がラトゥナプラに降り立ったのは、日曜日の午前12時のこと。快適なエアコン付きバスが首都コロンボからなく、35度という炎天下の中で、窓から入ってくる風だけが唯一の清涼剤であるようなローカルバスに4時間ほど揺られて、僕はラトゥナプラに降り立った。

事前の情報収集もたいしてないままに来てしまったので、お目当てにしていた施設が人が来なかったとかでその日はもう閉まってしまっていたりと散々な目にもあったけれど、ラトゥナプラで僕は素晴らしい経験をすることができた。

色々と市内を巡って、もう時も夕暮れに差し掛かっていたときのこと。街中で、おっちゃんに声をかけられた。「Are you from Japan?」というのが僕らの出逢いの一声だった。僕は嬉しかった。なぜなら僕の顔を見てスリランカの人がかける第一声は「Are you Chiniese?」だからである。(これは実際経験してみると、一ヶ月半も中国人と間違え続けられる生活は、少しイラッとするのを永遠に繰り返すようなもので、甚だうっとおしい。)

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だから、日本人だと(あてずっぽうかもしれないが)ひと目で認めてくれたその人と僕はすぐに懇意になった。そうして懇意にしていると、その人はどうやら自分の採掘場を持っているらしい。そして、どうやらその採掘場は近くにあるらしく、僕を連れて行ってくれるらしい。一人旅だし、こういうところでほいほいついていくといいカモにされそうだと思いながらも、日本人だといってくれたのもあって、話にのった。

さて、実際歩いてみると、近いとはいっても、街から歩くと20分ほどもある。まだ付かないのかとすでに4時間くらい歩き続けた足を引きずりつつ、道中、お互いにつたない英語で、あるいは旅差し会話帳のシンハラ語で、コミュニケーションをとって仲良くなりながら、採掘場に辿り着いた。

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「ここが僕の採掘場さ」とおっちゃんは言った。向こう側に見えるのが採掘場である。宝石の採掘場は、このようにして、空き地のまっただ中に突然現れる。そこで日夜、宝石が採掘されているのである。僕は、おっちゃんの後を追うようにして、採掘場へ足を運んだ。

 


 

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採掘場で最初に僕を出迎えてくれたのは井戸である。宝石の原石を採掘する過程は井戸からはじまる。写真ではうまく伝わらないが、30mほどの深い井戸を堀り、労働者はその井戸の中に降りて行って、砂を堀り、その砂をカゴに乗せて、地上にいる人がカゴを上まで引っ張るという過程を永遠に繰り返すのである。一年の平均気温が30度である炎天下のスリランカで。それはとてもキツイ労働だと言えると思う。

 

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スリランカは熱帯気候で豪雨が降るため、水を汲み出す施設も必要である。この貧弱なポンプが、井戸を掘り進めていく時にでる地下水と、容赦なく降り注ぐ雨をくみあげるときに唯一頼りとなる機械である。日本人からしてみれば、こんなので大丈夫なのかと思うほど頼りない。

 

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そうして、土の山が地上の井戸近くにできあがる。この土の山の中に、宝石の原石が埋まっているのである。街中でみるアクアマリンも、アメジストも、このようにして、井戸から人力で掘り出した土の中から陽の目を浴びる。ただし、もともとはただの砂の塊である。

 

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この大量の土をすぐそばの宝石選別場に運ぶための台車がこれである。こんな適当なつくりでは、土もこぼれてしまうのではないかと思ったが、そうとうお金がないようだ。僕はいいかけた言葉を胸にしまった。

 

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かっこよく「俺についてこい(実際には英単語Come!一語)」を発しながら進んでいく労働者のおっちゃんについて行き、僕は砂の山を井戸掘り出すパートから、砂山から宝石を選り出すパートへと移動した

 


 

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どうやって砂の山から宝石を選別するかというと、まず最初に、砂を除去するのである。砂は水の中にやるととけるが、宝石(と岩石)はとけない。だから、カゴに砂山の砂を載せ、水につけてやれば、宝石と岩石を取り出すことができる。ご覧のように、砂をとかすため、ここはとても汚い。たぶん衛生状態もとても悪い。そもそも、これは野ざらしにされている水たまりのようなものである。ここに服を着たまま、おっちゃんたちは飛び込んでいく。もはやなんとも思わないのかもしれないけれど、すごいなと僕は思った。

 

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そうやって、一つひとつの砂山を、岩石と宝石の集合体に変えていく。一つひとつ手作業で、途方も無い労働力をかけて、砂を取り除く。仕事ぶりは、そのいかにも粗雑な作業場から想定されるよりははるかに丁寧で、目視で一つひとつを確認するのだ。

 

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そうして、いよいよ岩石から宝石を選り分ける作業である。この時は、皆、とても真剣である。誰一人、声をあげることはない。ひたすらに、岩石がカゴと擦れる音があたりに鳴り響き、皆でそれを見守る。これを彼らは何千回何万回も人生で繰り返してきたのだろうけれど、それでも、毎回こうやって緊張した面持ちで見てきているのだろう。それは、少し、陸上の大会と同じ雰囲気を持っているのかもしれないなと今になって思う。

 

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そうしているうちに、一つ目の宝石が見つかった。イエロートパーズである。それもかなり大きい。一つ目の宝石が見つかった時、あたり一面が歓声に包まれる。けど、一番大きな声をあげたのは僕だった。「あった!」。思わず日本語で叫ぶ。彼らも満面の笑み。僕はなぜか彼ら以上に嬉しそうな顔をしていたかもしれない。ただ、僕は今日のこの日が終わったらコロンボに帰ってしまうのに、勝手に彼らの仲間であるかのような気分になっていた。そうして、緊張は続きつつ、小さな宝石だが、ガーネットなど、全部で5つの宝石が見つかった。僕は単純に嬉しかった。

 

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嬉しそうな僕を見て、彼らも嬉しかったのかもしれない。彼らは、この宝石は共同作業の賜物だから、君にあげるといったようなことを言った。僕は、これは君たちのだから、もらえないといった。でも、彼らは笑顔で僕にくれるとまた言った。だから、僕は、5つの宝石のうち3つの宝石をもらって、記念にしたいと言った。彼らはまた笑ってくれた。そうして、彼らの寝床を見せてくれた。粗末なという言葉で形容できないかもしれないけど、粗末な家だった。採掘場のすぐそばにあった。豪雨のときには流れ去ってしまうのではないかと思えるような家だった。彼らは、良い石がでなければ、一日を果物一つで凌ぐしかないような生活を送っているようだ。そして、もし、マーケットで高値で取引されるような石が出なかった場合…、僕に宝石の採掘を教えてくれた労働者も、僕を案内してくれたオーナーも、もろとも赤字を抱えて倒産するということになる。宝石採掘とは、それほどまでに、苦しい仕事なのだ。
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僕は、彼らに宝石代ということで1000ルピーを渡した。市役所の月給が30000ルピーであるこの国で、彼らにとっての1000ルピーとはいかほどの価値があるかは、もちろん僕にとってもよくわかっている。僕は、物乞いにお金をあげることがどうしても好きになれない。もちろん、あげることはあるんだけど、お金をあげることが、彼らをそういう生活につかざるをえなくしている構造を等閑に付す行為に加担している気がしていて、どうにも不愉快な気分になる。偽善というよりは、まわりまわって僕みたいな人がたくさんいるから彼らを苦しめてしまうのではないかという気がしてくる。だから、僕は自分に嘘をつくためにも、宝石代だということでお金を手渡した。もちろん、僕にだって、あの宝石に1000ルピーの価値なんてあるはずがないことはわかっている。彼らはといえば、びっくりしていた。きっと、帰り際に僕に無心しようと思っていたのだろう。スリランカで旅行していると無心されるのが当然だから、それはよく分かる。それが彼らのビジネスなんだろう。だけど、僕は無心されてお金を渡すということがしたくなかった。だから、あくまでも僕の意志で、彼らの労働の対価として、1000ルピーを渡して、彼らを驚かして、日の暮れる空を見ながら、採掘場を後にした。

 


 

以上が、僕が経験したことの全てである。別に大した経験でもない。これまで、たくさんの日本人が、ラトゥナプラに旅行にきて、同じことを体験しただろう。同じようなことなら、世界中のどこかほかの場所にいっても体験できるだろう。別に僕の体験は、普遍性や一般性をもっているわけではない。

だけど、僕の体験は、僕にとって、代替不可能性を持っていた。この経験は、僕と彼らの関係性を築くのに十分であった。そして、僕と彼らは、これまで歩んできた歴史性の網の目に捉えられた存在として、その場に共存していた。

歴史性と関係性。それから成る代替不可能性。僕の哲学的テーマは最終的には「実存の傷」と「存在の謎」に向けられている。代替不可能性は、それを思考するための大きな足がかりの一つとなる。

僕は僕であって、僕以外ではない。当たり前のことである。だけど、僕が僕として、彼らに関わるとき、彼らを傷つけてしまうかもしれないのだ。去年の夏に山谷にいった。そこでは現地のホームレスとコイン投げをして遊んだ。今年はラトゥナプラに行った。そこでは現地の労働者と宝石を掘った。そこで共通しているのは、歴史性よりも関係性に重きをおき、代替不可能な存在として彼らに関われるかということだった。

歴史性をカッコに入れるということは、僕がこれまで歩んできた人生を忘れるということだ。人生を存在の存立基盤としているとき、それを忘れることは、僕たちの存在を危うくする。だけど、僕らは実存的な生を生きていると同時に、人間存在でもあるのだ。人間であるからこそ、人間として、人間と関われる。

山谷にいったときは、朝ごはんが食べられなくてお腹が空いている一人の人間として。ラトゥナプラでは、仲間が宝石を見つけたことを喜ぶ一人の人間として。

僕は、東大生であるし、日本人であるし、近代社会に普段は生きているし、家庭環境はかなり良好なほうだと思う。東大の友達と比べれば経済環境は整ってないかもしれないが、世界全体でみると上から数えて1%程度には恵まれた生活を送っているといえるだろう。

それを自覚しつつも、その恵まれた社会の一員だということをカッコにいれずに、彼らに関わることは僕にはできない。僕は、自分の背負ってきた歴史が、彼ら宝石採掘者にとってどんなに暴力になることか、自覚している。だけど、その暴力性を制御しつつ、彼らと関係を取り結べるほどの力量もない。だから、僕は歴史性をなかったことにして、彼らと人間としての関係性を結ぶしかなかった。

実存の傷については、この程度でいいだろう。僕は、ただの人間として存在しているのではなくて、この世界に実際に存在している者として存在している。僕という存在は、既に色々抱えてしまっているのだ。純粋無垢な人間存在としては存在していない。だけど、それを自覚することで、それをカッコにいれて、実存の傷を隠すことはできる。特に、それが他者に対して暴力性を持つ場合は、そういう努力をするのが努めだろうと思う。

 


 

次に、存在の謎に関わる論点についてだ。

ラトゥナプラでみた光景は、世界に横たわる圧倒的な不平等と、想像の範疇外にあった劣悪な労働環境を僕に開示した。そこから湧き上がる問いは「なぜ僕は日本に生まれたのだろうか」という問いである。

存在そのものを問う問いを存在論的問いという。「なぜ、僕は存在しているのだろうか」というのが、その根本的な問いである。これは科学で答えることはできない。そして、存在に要素を付け加えることで「なぜ、僕は日本人として存在しているのだろうか」「なぜ、僕は東大生として存在しているのだろうか」というように、問いは広がっていく。

僕が日本人として生まれたことには何らの必然性もない。僕が受験戦争に適応的な脳の構造を持って生まれてきたことにも何らの必然性もない。僕が幼い頃に本を読むきっかけとなった出来事だって偶然以外に説明のしようがない。

こうして、科学的に説明できないような、根拠のないことを根拠にして、僕は世界の中で恵まれた方に属すことができている。知的に誠実に自分の人生を説明すると、9割方は運とか偶然にならざるを得ない。日本人として生まれたのはともかくとしても、受験勉強とかは努力に帰していいと思う人が多いと思うのだが、受験勉強にしたって、どんな能力が優遇されるかというのは、生まれてきた社会によって決まるので、努力が全てではない。というよりも、努力は実はほとんど意味がないのではないかという気がしてくる。本を読むのが好きだという性質も、抽象的な議論が理解できるという性質も、形式的操作が得意だという性質も、負けず嫌いだという性質も、生まれ持ったものでしかない。結果を説明する決定因が、努力に依らないものだとしたら、僕らはその結果にどこまで威張れるんだろうか。

同じスタートラインから競争したわけでもないのに、「現実に」世界経済における勝ち組だからといって、全てが自分の実力と努力のおかげだと思って威張り腐っている奴のこと。僕はそういう人を「頭が悪い人間」だと定義している。自分自身がそんなに頭のいい人間ではないので、自分のことを棚にあげるのはどうかと思って、最近はこの言葉を心がけて使わなくなったが、基本的に「頭が悪い」として、僕が最も軽蔑する対象は、自分のことを賢いと思っていながらも、「可能態」を思考の枠に入れられる「能力がない」人間のことである。「頭が悪い」というのは言い過ぎだから、今度から「頭に血が巡っていない」という言い方に変えようと思うけれど。

自分の成功は自分の努力だと思わないと都合が悪いことが、世の中にはきっとたくさんあるのだろう。能力主義の社会では、そういうふうに主張しないとやっていけないということは分かる。あと、そういうふうに思い込んでないと、自分が何者なのか分からなくなるような存在の基盤が弱々しい人が多いのも分かる。だけど、知的に誠実であると決めた以上は、そこまで思考にいれないとだめなんじゃないの?と思う。これは、中学高校のときから、多くの優秀な友人をみてきて、多くの僕よりも努力している友人をみてきて、なぜ僕がこういう存在として世の中に存在しているのかということを問い続けた結果、至った答えだ。「頑張れ、さらば救われる」なんていう小学生も今どき騙せそうにない物語を必死に布教している人は何が楽しいのだろうか。そりゃ受験前の一年間とかもう後に引けない状況なら「頑張るしか無い」のだろうけど、一生「頑張れと言われ続ける」のは大変なことだろうと思う。適性の多様性が学校教育では無視されすぎである。

こういうことを秘密基地民に言ったら、「おお、なんとも手厳しい。想像する義務をある程度までに緩めておかないと、生きられなくないか」といわれたり、「読んでるだけでつらいわ しんどかろう」といわれたりした。実際、生きられなかったり、しんどかったりするのは事実である。僕も、頭をからっぽにして、自分の人生の成功は全部自分のおかげだ!とかいって、こういう条件下で誰が犠牲になっているのかということに考えが及ぶこともなく、自分のことばっかり考えて生きていけるような人間になりたかった。与えられた条件下で最大適応するためにまっしぐらに努力できる人間になりたかった。そういう人は光り輝いているような気もする。脚光もあびるし、かっこいい。ただ、僕はそう考えざるを得ない星のもとに生まれてきたということ、そして、そこまで考えない以上は、自分に対して申し訳ない気分になるので、この営みをやめることはできない。これが原因で、何年か前には、彼女と別れることになった。それほどまでに、僕にとっては切実な問題なのだ。

そういう存在の謎と日々格闘している僕らにとって、ラトゥナプラの光景は、思考に具体性と現実性を与えてくれた。どう考えて、どう生きようと、全ては自分のためなのだ。人生など、究極の自己満足にすぎない。どうせ、皆、いつかは死ぬのだ。ただ、僕は、どうせ死ぬなら、自分で選んだ終わり方で死にたい。そうしないと自分に対して面目が立たず、納得できない。

僕の人生は、納得するための旅路だ。

僕にとっての幸福は、納得できる道との出逢いだ。

そういってもいいのかもしれない。

 


 

そして、笑顔。人間の幸せとは何なのだろうかという問いに導くもの。

貧困というと、どんよりとした気分になってくる。不平等というと、陰鬱とした雰囲気が襲ってくる。どこか、ほかの世界のことだと思えてくる。映画の中で、悲しげな音楽とともに、陰があるシーンとして映し出されるものだというように連想される。

だけど、思い込みはよくない。たぶん、無知よりも、思い込みの方がひどい。貧困の現場も、不平等の現場も、異なる生物の問題なのではなくて、人間の問題である。当然、面白いことがあれば笑うし、悲しいことがあれば泣く。僕らが悲しいと思うことが、彼らにとっても悲しいと思うことかは分からない。決めつけるのは、単純に視野を狭めてしまう。

ラトゥナプラの宝石採掘者たちは幸福なんだろうか。これも彼らにしか分からない。僕が決めつけるのはよくないだろう。だけど、不幸なのかと聞かれれば、僕は不幸ではないのではないかと答える。

確かに彼らの収入は少ないだろう。粗雑な小屋で、一日に果物一つしか食べず、肉体労働をし続けるのは、つらい生活だろう。少なくとも僕には無理だろう。だけど、人間は、一人あたりGDPのための生きているのではない。彼らの知っている世界が狭く、あの世界の中だけで完結しているのだとしたら、彼らは不幸だと認識することはできない。幸福という観点からすれば、彼らを一意に、幸福ではないのではないかということはできない。ウォール・ストリートで一年間に一億円を稼ぐ人も、一年に十億稼ぐ同僚とくらべて、自分のことを不幸だと思ったりするらしい。人間は自分の幸福を測定する指標を、周囲の人間というごく狭いサンプルからとってきて構成するものらしい。自由が増えると、サンプルが偏り始める。もっと、いろんな人と、自分より豊かな人と、自分を比べ始める。届くはずのない選択肢が、見えていなかった選択肢が、頭から吊り下げられてる人参のように、僕らを苦しめる。

確かに、彼らは幸福という観点からすれば満足いく生活のものなのかもしれない。だけど、善という観点からはどうなのか。彼らが、あのような生活をしているのは、善いことなのか。そう問うことはできる。こちらの方の問いには意味があると思う。そして、矛盾するかもしれないが、彼らがあのような生活をしているのは善いことではないと答えたい。宝石を買う消費者から宝石を採掘する労働者まで、適切なお金の流れがあるとは思えないからだ。サプライチェーンの間における不平等は、たしかに、そこに存在する。僕らの社会は一般的に、もっとも現実に価値を生み出している労働者をレバレッジして、不労所得者が威張る構造になっているが、これは社会への価値、人々をどれくらい豊かに幸せにしているのかということでいうと、少し是正されるべきなのではないかと思っている。

自由。幸福。善。

絡み合った概念が映し出す世界が現実なのだとしたら、彼らの笑顔にこそ、到達すべき真があるのかもしれない。

 


 

さて、書き始めてから、もう10000字近くにもなってしまった。大学の期末レポートに迫る分量だ。読んでくださった読者諸兄には、感謝の言葉もない。なにか、この文章から得られるものがあれば、筆者としては無情の喜びだ。

経験から何かを学ぶことに意味があるのだろうか。普遍化できない知は、僕らに何も与えてくれないのだろうか。もともと教育学を学んでいる僕は「這いまわる経験主義」という用語を知っており、教育をもっぱら経験のみから構成させればよいのだというのには反対だ。だけど、今、教育プログラムをつくるなかで、どうしても人間の学ぶ欲求には経験が必要なのだということも理解している。経験からしか学べないものもある。教育学者に求められるのは、経験主義と系統主義をどう両立させるかということなのだと思うということを述べて、教育学徒として、結びの言葉としたい。

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