表現者の意図が芸術を芸術にするのか?見る人が美しいと思えば芸術なのか?真理を開示するのが芸術なのか?美術館にあるから芸術なのか?偉大な絵画は写真に撮ると芸術じゃなくなるか?ショパンの曲を演奏するピアニストは芸術家か?共有されない芸術作品は存在するか?などに関する思考実験【哲学班レポート】

思考実験。思考実験とは、哲学的な論点を論じるために、現実にある様々な条件をいじって頭の中につくりあげられた、仮想の実験場における実験のこと。

思考実験をつくって対話や議論をすることは、頭の体操という意味でも、哲学をするという意味でもとても有益である。ここに僕がつくった思考実験を二つ紹介したいと思う。先日、秘密基地College哲学班の学びの場で使ったものである。感情を揺さぶるために秘密基地で使った時は色々とレトリックを駆使して書いたが、本質だけをここでは抽出したい。思考実験の後は、実際に対話の場から生まれてきたものを多少図式的に理解しやすくして掲載した。まさに場から生まれてくる哲学を実践できた良い会だったと思う。



【思考実験その1】

あなたは美術館の館長である。世界で最も有名な彫刻家(ロダン)の彫刻だと思い、その美しさをたたえて、長年美術館の入り口近くの特等席に「石」を飾ってきた。しかし、科学的調査の結果、その石は彫刻ではなくてロダンが散歩のついでに拾ってきた石であった。そのことが判明したとき、あなたは、美術館にある石をいかにすべきだろうか。


【芸術は誰のものなのか】

ハイデガーは芸術を分析するときに、「芸術家―芸術品―鑑賞者」の三つの観点から、あるいはそれぞれの関わりにおいて分析すべきであると論じた。この思考実験でも、それは如実である。

思考実験1を見てみよう。館長がとることのできる行動は以下の三つである。

(1)そのまま飾る
(2)説明付きで飾る
(3)飾らない

この行動は、芸術は誰のためにあるのか?に依存して決まるのではないかと思われる。

芸術は芸術家のものだと考えてみる。芸術品の価値は作者の意図やメッセージや意思表示であるという前提をおいてみるのである。その意図には、作っているかどうかには必ずしも依存しない。例えば、ロダンが美しいと感じて拾った石なのであれば、それは拾ったという行為によって芸術作品となる。しかし、ロダンが重石としての石を探しに散歩にいっていたのであれば、その石は芸術作品とならない。前者の場合は、石自体に作者のセンスや意図が光っているという意味で、作品だと認めて飾るべきだが、後者の場合は、石自体がどんなに綺麗でも芸術として美術館に置くのは間違っているということになる。前者の場合、あるいは、ピカソの筆を遺品として美術館として飾るように、ロダンの重石を美術館に飾ることもありうるのではないかとまで言える。マチルダが拾ってきた石と、その辺のおっさんが脇で温めていた石は、同じ石でも違うというわけだ。しかし、これらの論点に対しては、芸術品は芸術家が宣言しただけで美術品となるのかという批判がありうる。現代アートに対してときおり持ちだされる批判である。

芸術は芸術作品そのものだと考える。作者の意図を超えて、芸術作品そのものが何かを訴えたり、作品そのものの美しさが評価されたりするべきであるという考えである。「美術館なので美術的価値を重んじることが必要なのではないか。」との一節がでたように、美的価値という言葉からは、芸術と美術の差異が先ほどの論点に重なる形で想起される。この論点からいくと、科学的調査以前に石自体を美しいと思っていたのだから、美術館にはそのまま飾っておくべきだと考えられる。

芸術は鑑賞者のものだと考える。鑑賞者が作品をどう解釈するか、鑑賞者が作品からどのように心を動かされるか、それを重視すべきであるという立場である。例えば、科学的な測定によって石の価値が減じるということはありえず、石から鑑賞者が感じることはそのままであると推定できる。もっと進んで、その石は分からなさや解釈の自由を象徴していて、新たな芸術的価値を獲得したのだと主張することすらできる。

しかし、ハイデガーの狙いを超えて、ここに第四の主体が立ち現れることになる。「美術館」という主体である。現代社会において、芸術や美術を語るときに、美術館や博物館(ミュージアム)を外して語ることはできない。「原理的には」ハイデガーの分析図式で対処できるはずだが、「現実的には」制度的諸条件を考慮すると、美術館という主体を考えることはできない。

芸術品は美術館のためにあると考えられないだろうか。芸術作品それ自体はたしかに芸術家がつくったものである。しかし、誰にもみられない芸術作品は芸術作品といえるだろうか。それは存在しないのも同じなのではないか。美術館は芸術品を鑑賞者に見せるための装置である。したがって、「芸術家―芸術作品―鑑賞者」の間を媒介するメディアとしての美術館が、ほんとうは芸術を芸術たらしてめているということもできる。「美術館にあるから芸術に見える」という経験は、現代社会では、誰かがなにかの形で経験したことがあると思う。この立場からいうと、作者のメッセージも、鑑賞者の解釈も、作品それ自体の開示性も問題ではなくなり、問題なのはただひとつ「美術館という空間に存在するかいなか」ということになる。すると、問い自体が、「館長がどうするべきか?」なのではなくて、「館長がとった行動に応じて何が起こるか?」というものに変化すると考えられる。例えば、美術館に展示していたら石に価値を鑑賞者が読み込んでしまうから、科学的測定の結果、もしただの石だと館長が思ってしまったのであれば、倫理的観点から飾るべきではないと論じることができるだろう。

美術館は美を鑑賞者に伝える装置なのか、芸術作品を鑑賞者に伝える装置なのかというので異なる。美を伝える役割なら飾るべきで、芸術作品なら飾るべきではない。さらに、美術館の役割を決定するのは、美術館の館長なのか、美術館の客(鑑賞者)なのかどうかという論点も含まれるというように、美術館についての考察は、先にあげた三主体との関わりを断つことはできない。

さらに、そこを考え始めると、美術館そのものの特質が飾られている芸術品に影響を及ぼすということが考えられる。美術館自体がロダン専用の美術館なのかどうかによって、芸術家としてロダンを評価していたのか、作品として石ころを評価していたのか、展示のメッセージが異なってしまうので、それに応じて展示するか否かの判断が変わる。もし、芸術品の芸術性が芸術家に帰属するという文脈の中にあれば、石ころを拾ったロダンの美的センスを評価して飾るべきかもしれない。例えば、お笑いでは、一発屋は作品が評価されている状況で、長くさまざまなネタが愛されているのは芸人として評価されている状況であると考えられる。美術館の空気感によって、鑑賞者は作品そのものに対峙するか、作者の一作品として作品を読み込むかが変わるのだ。ただし、この論点に関しては、「美術館がなくても芸術は成立するか?」「芸術家と鑑賞者の一対一の関係はありうるか?」「美術館という装置が成立したのはなぜなのだろうか?」「美術館が館長の個人的な敬愛の念をしるすためのものだったのならば、美術館とは館長の自己満足の場所なんだろうか?」といったような原理的あるいは歴史的批判をすべきであることはいうまでもない。

少し異なる論点になるが、各主体での価値を考えるときに、真善美を考慮しなければならないかもしれない。芸術とは、真善美でいうところの、美に相当するものだと思われている。真は科学、善は倫理が相当すると考えられている。その線に沿うと、科学的説明によって芸術ではなくなったのはなぜかという問いが出てくる。あくまで芸術品が美や感情に依拠していると考えるならば、真実であることがそんなに重要だったのかと問うことができるだろう。ロダンの作品だと皆が思い込んでいた方が幸せだったのではないか、と。逆にこれまでみてきたように、芸術品の価値は美のみではない。真や善も大事だということもできる。

さて、これまで思考実験1の方を考察してきた。まとめると、「芸術はだれのものなのか」という問いには、「芸術家」「芸術作品」「鑑賞者」そして「媒体としての美術館」という4つの答えが現実的にはありえるということになる。



【思考実験その2】

あなたは散歩をしている。そのとき、世界で最も有名な芸術家(ピカソ)を見た。ピカソは絵を書いている。しかし砂浜の上に書いており、もうじき絵は消えてしまうだろう。あなたの家は、今ここから全速力で走って帰ってくればギリギリ間に合うかどうかくらいの距離にある。家に帰ればカメラがあり、間に合えば、カメラで絵をとることができるかもしれない。しかし、間に合わないかもしれない。その場合は、この美しい絵を二度とみることはできない。さて、あなたは、どうするべきなのか。


【創造・模倣とは何か?なぜ僕らは共有したがるのか?】

次に思考実験2を考察する。ここで鍵となる概念は、「創造・模倣・共有」という三つの概念であると考えられる。

「ピカソの絵は、写真に撮ってしまうと、価値はなくなってしまうのだろうか」と問いを立てる。ピカソが砂浜に書いている、まさにその絵、ピカソが「創造」したまさにその絵にこそ価値があるのであって、写真にして「模倣」してしまうと価値はなくなってしまうということもできる。また、写真に撮っても価値が減じるかもしれないが、それは「共有」可能になるという意味で意義深いことであるということもできる。前者を「創造主義者」、後者を「共有主義者」と定義しておこう。

創造主義者は、作者の作品だけが持つ価値を重視する。創造主義者は、「創造」そのものを重視する。創造主義者は、オリジナリティを重視する。

しかし、創造主義者は、たった一人の創造者しか認めていない意味で、不徹底な創造主義者だと批判されるかもしれない。「主体に参加したいという意志」をもってピカソの写真を撮影する人のことを、創造主義者はどう扱うのだろうか。撮影は創造であると認めてお仲間だと歓迎するのだろうか。撮影は創造ではない模倣だとして激しく糾弾するのだろうか。

ショパンがつくって弾いた曲とショパンがつくっただけの曲は明らかに異なる価値があるのに、みんなが嬉々としてショパンの楽譜を見て演奏し、あるいは、ショパンではないピアニストが演奏するショパンの曲を「ショパンだ!」といって満足する人がいる謎を説明せねばならない。あまつさえ、その演奏を録音したCDを事務所でかけて「やっぱりピアノはショパンだ」とかなんとか言っている社長についても突っ込まねばならない。しかし、それらの感動・感情に対して、どういう説明がありうるのだろうか。

それとも、創造主義者は、1000年も前のお寺や仏像が修繕されただけで、価値が台無しになると思い、急にお寺や仏像を見にいくのをやめるのだろうか。それはなぜなのだろうか。そもそもお寺などというものは、たった一人の創造者は仮定できないのではないか。

あるいは、創造主義者はあまりにも人間中心主義的だと非難されるかもしれない。もし風が吹いていまピカソがかいている絵と同じものができあがったら、創造主義者はそれを自然の創造だと言うだろうか。

一方で、共有主義者は、作品の模倣も価値を持つとし、芸術作品は共有されなければ価値を持たないとする。

誰にも見られていない作品は作品なのかという問いから出発して、作品が公共性を獲得しなければ、作品が「共有」されなければ、作品たりえないとする。ピカソの絵を撮影することは作品そのものの価値を減じるかもしれない。しかし、ここでピカソの絵が消えてしまうと、今ここにいる自分以外、未来の自分さえも鑑賞できなくなるという意味で、この作品の価値はゼロになってしまう。ならば、撮影し、共有可能にすることで、この作品の価値はゼロから幾分か上昇すると言える。100%後世に残す必要がある必要はなく、100%オリジナルでなくても感動できるのではない。共有は、未来の自分に対してでも、友人でも、Twitterでもいい。誰か、そこに見る人がいる限り、芸術は成立する。そう共有主義者は主張する。

一歩進んで、共有それ自体が芸術を成立させるのならば、ピカソという天才の作品を共有するというのは義務であると主張することもできる。「俺は一応後世の残そうと努力したという言い訳がないと、この場合、やってられない」というわけである。「人類に失礼だと感じる」というわけだ。

しかし、共有主義者は刹那性が確かにもつ美を無視しすぎであるという批判を免れない。儚さが芸術性を増すという主張も現実にはあるのだ。ピカソの絵が消えるのを悲しいなと思いながら消えるまで眺めることの美しさを感じることを説明はできない。散りゆく桜はもう二度とみることはできないけど、確かに美しい。さらに進んで、永遠ではないこと自体が価値なのではないか、あるいは、自分以外誰も見たこともないという価値も世の中には存在するのではないかという主張に対して、共有主義者はあまりにも無力である。絵を書いている過程が美しいのかもしれないし、自分だけが見ているというプレミア感が美しいと感じさせるのかもしれない。そう考えると、写真をとるという行為がまさに、美しさを消すかもしれない。此の辺は、国民性とか文化の違いが出そうではある。

もっというと、共有によって永遠性を獲得することによって、いつでもあるなら今見なくてもよいじゃんってなって、価値を減じる可能性すら想定する。共有そのものが今ここ性を抹消するのである。観光にいって美しい風景の写真を撮った後、じっくりと風景を観察することなしに、その場を離れたことはないだろうか。ストリートアートなどの即興芸術を写真に収めたことはないだろうか?

少し思考実験1とも重なるが、共有主義者は作者のことを考慮しなさすぎであるということもできる。ピカソは鑑賞者を想定していないのかもしれないし、それは下書きであって誰にも見て欲しいものではないのかもしれない。それを無視して、作者の意図を考慮せず、写真にとって未来の自分や友達、後世の人類に共有してしまうのは、罪なことなのではないかというわけだ。

ここでは、共有主義者の共有の手段を、カメラ・撮影というところに絞った。しかし、それが絵や文章や詩だったらどうだろうか。何かしら結論は変わるだろうか。果たして、美は記憶できるのだろうか。共有や公共性という概念は幻想であるという誹りを免れることはできるか。

写真に残したらオリジナル作品ではなくなるのだろうか。自然に消えていくものを形に残したいなら写真にとればいいのではないか。カメラをとるためにダッシュするのがいいのではないか。どんな形でもいいから残せるようにしたい。文章で美しさを伝えようとしても、それは完全に伝わらない。それは写真の場合のそれと同じだろうか。例えば、残したいシチュエーションを時間経過と共に伝えたい場合だと、写真よりもむしろ、文章がよいのかもしれない。

最後に、芸術は永遠なのか?という論点も補足的に述べることができよう。芸術がモノならば、物質的永遠性はあやしいので、オリジナルな芸術としての価値が永続するというのは疑わしい。しかし、芸術が概念であり、なんらかの真理を体現しているものならば、オリジナルなものが表現した真理を共有していくことによって、芸術は永遠性を獲得できるということもできる。



さて、ここまで秘密基地哲学班での対話によって生じたものを書き留めてきた。読者の皆さんにわかりやすくするために、立場を明確に分析的に分け記述したことをお許し願いたい。対話とはもっと動的なものなのだ。実際の対話では、創造は大事だといっていた人が、共有の利点を語ったりする。鑑賞者の解釈を重視していた人が、作者の意図を考慮し始めたりする。人間は一つの主義に押し込められるほど、窮屈な精神を持ってはいない。矛盾をはらみながら、自分の感覚と、論理的な推論能力を頼りに、一つひとつ確認して進んでいく、その共同作業が、人間と人間の対話なのである。

哲学的対話というのは、哲学者の名前を偉そうに挙げていって、それを難しい哲学用語で塗り固めて、言っている方も聞いている方も何が何だか分からないまま時間を浪費するものではない。参加している側も楽しく、自分の地頭だけを頼りに、一つひとつを丁寧に思考していく営み、それが哲学的対話である。気難しく、象牙の塔で執筆に入るのは、対話の後である。対話の後で振り返って、思考の整理が行われる。対話の最中に整理されるということはありえない。整理も大事だが、整理されてしまって静になったものを見て、事たれりとしてはいけない。

「…主義」という静的なものをつくってしまって記事にしたけれど、自分自身、そして読んでくださった読者の皆さんが、この言葉に踊らされないように、夏目漱石の文をひいて、終わりにしたいと思う。


大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を几帳面(きちょうめんな)男が束(たば)にして頭の抽出(ひきだし)へ入れやすいように拵(こしら)えてくれたものである。一纏(ひとまとめ)にきちりと片付いている代りには、出すのが臆劫(おっくう)になったり、解(ほど)くのに手数がかかったりするので、いざという場合には間に合わない事が多い。大抵のイズムはこの点において、実生活上の行為を直接に支配するために作られたる指南車(しなんしゃ)というよりは、吾人(ごじん)の知識欲を充たすための統一函である。文章ではなくって字引である。

同時に多くのイズムは、零砕(れいさい)の類例が、比較的緻密(ちみつ)な頭脳に濾過(ろか)されて凝結(ぎょうけつ)した時に取る一種の形である。形といわんよりはむしろ輪廓(りんかく)である。中味(なかみ)のないものである。中味を棄てて輪廓だけを畳たたみ込むのは、天保銭(てんぽうせん)を脊負う代りに紙幣を懐ふところにすると同じく小さな人間として軽便(けいべん)だからである。

(中略)

従ってイズムは既に経過せる事実を土台として成立するものである。過去を総束(そうそく)するものである。経験の歴史を簡略にするものである。与えられたる事実の輪廓である。型である。この型を以て未来に臨(のぞ)むのは、天の展開する未来の内容を、人の頭で拵(こ)しらえた器うつわに盛終(もりおおせ)ようと、あらかじめ待ち設(もうけ)ると一般である。(中略)しかし人間精神上の生活において、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直(ただち)に与えられたる輪廓のために生存するの苦痛を感ずるものである。単に与えられたる輪廓の方便として生存するのは、形骸(けいがい)のために器械の用をなすと一般だからである。その時わが精神の発展が自個天然の法則に遵したがって、自己に真実なる輪廓を、自(みずか)らと自らに付与し得ざる屈辱を憤(いきどお)る事さえある。

(後略)

――明治四三、七、二三『東京朝日新聞』――

コメントを残す