セミあるいはクラゲ

いつもの通り道にあいつはいる。仰向けになって。もう一ヶ月近くだろうか。あいつはいつもそこにいる。
側溝に。仰向けになって。
いつ死んだのかはわからない。日が当たらないから、朽ちてもいかない。自然のつくりだす標本。人口ではなく天然の標本。
同じ場所に、同じ姿で、ずっとそこにいる。あいつもつい一ヶ月前までは、けたたましく鳴いていたに違いない。地中の中で蓄えた生命力を僅かな時間で使い果たすために。そして、エネルギーがなくなるとぷつりと死んでいく。さっきまであんなにうるさかったのに。地面にすっと落ちていく。あとは、食われるなり、朽ちるなり。
しかし、あいつは死んだまま。死に続けている。当然そこにあるべきもののように。相も変わらずそこにいる。
誰も埋葬してやらない。誰も食べてやらない。誰も朽ちさせてやらない。死んだままの姿でそこにいる。
死ぬ間際に何を思ったか。そんな余裕もなく、気づいたら死んでいたか。気づいたら死んでいたなんてことはあり得ない。死んだら意識は消える。ほんとうに!?
帰りもあいつに一瞥くれて、住処に戻るとしよう。

夏休みに水族館に行った。「存在するとはサカサクラゲの仕方で」、そういうこともありそうだなとふと思った。
サカサクラゲってご存知でしょうか。その名の通り逆さまなクラゲです。
地面にべたっとくっついたままなんぼんかの触手をだらだらと漂わせたまま。泳ごうとはしない。出来ないのもしれない。とりあえず、ふつークラゲのようにはゆらゆらと水中の中を泳いだりすることは少なくともないだろう。と思って、ググってみた。どうやら泳ぐようである。太陽光のもとでは泳ぐようである。
水族館のサカサクラゲは太陽光に当たる場所にいなかったから泳ぐことはないのかもしれない。あくまでもかもしれないである。じゃあこういうことになるか「存在するとは水族館のサカサクラゲの仕方で」
いずれにせよおもしろい生物である。
水族館のサカサクラゲはべったり地面にくっついているだけ。なんのために生きているのかわからない。
それがいい。動物や植物や岩やら、そういう人間以外の存在から人間を眺めたら同じことを思うかもしれない。倫理も道徳も法も規則もあるいは愛も友情も郷土愛も存在しないうちに生きている。ただそこに存在するものとして。意味もなく空間のある一点を占有している。生まれた瞬間から。ただただそこにあるものとして、そこに位置を占めている。
そして、そういう存在をすべて許容する世界の倫理や道徳を超越した底知れぬ寛容さ。死骸でさも空間に位置を占めることを許容する世界の理由なき寛大さ。
人間もまたものである。空間に位置をしめるだけのものである。その意味では、その他の動物とも植物とも岩とも同列の存在である。そういう面も人間にはあることは否定することはできない。人は人間であると同時にものである。そういう気分を忘れたくないものだ。

鶴竹でした。中秋の名月はやはり名月ですね。秋の深まりを待ちわびつつ。

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