「やり残したこと」ありますか? (非構成エンカウンターグループで起こったこと2)

非構成エンカウンターグループに参加した僕は、前の記事に書いたような沈黙を経て、沈黙が破れ、対話が始まる地点の寸前に来ていた。

とはいえ、沈黙が破れてから対話が始まるまでには間があった。直接的に沈黙を破ったのは、ファシリテーターであるヘルメの「そういえば、今日此の場で皆さんのこと、なんて呼んだらいいですか?」という言葉であったが、それには通り一遍倒に答えたたけであった。その後、沈黙してるとき目があってたよねなどと沈黙のときの回想が少し挟まる。

それが終わり、対話の始まったのは、場の偶然性から発せられたある問いがきっかけであった。この日、参加者の一人(ほげほげさん)がたまたま「10代でやっておきたい17のこと」という本を持参してきていた。ほげほげさんは、多少遅れ気味にその場に到着しており、その本をかばんに片付ける間もなくワークショップが始まったので、その本は沈黙の間もその場にあり続けた。別の参加者(ふがふがさん)は、その状況を沈黙の間、ずっと観察していたのだろう。その本のタイトルから連想を得て、「やり残したことがあるのか?」という問いを発したのである。

この後、場は「やり残したことがあるのか?」という問いをめぐって回っていく。まず、ふがふがさんが、ほげほげさんに問うて、ふがふがさんがそれに応答した。ふがふがさんは、その後、僕に直接それを問うことなく「今、かめきちが問われたら嬉しい問いって何?」と問うた。僕は「問われて嬉しい問いは、問われるまで分からないから、具体的に応えることはできない」と言いつつも、「重たい問いよりも、鋭い問いだと、嬉しいと思う」と答えた。さらに、「やり残したことがあるのか?という問いは鋭い問いだと思う」と付け加えた。そうして、やはり僕も「やり残したこと」について答え始めたのだ。

今日の記事は、非構成エンカウンターワークショップについての連載全体から言うと、多少蛇足的な要素が強い。とはいえ、非構成エンカウンターグループに関連して、「やり残したこと」について語ることには意味がある。その意味は以下の三つに集約されるだろう。

  1. 非構成エンカウンターグループの問いは、「場の偶然性」から発せられる。このワークショップは、徹頭徹尾「場」から生まれるものである。最終回の記事で、ジョハリの窓を基盤にしながら非構成エンカウンターグループの特徴を考察するときに、この点は非常に重要になる。
  2. 非構成エンカウンターグループは、静的なワークショップではなく、動的なワークショップである。第一に、「やり残した問いがあるのか?」という問いが「今、問われたら嬉しい問いって何?」という問いに繋がるという問いの連関性がある。第二に、問いの応答そのものが問いの対象になる。これに関しては、次回の記事でメインの問いを取り上げたときに詳説する。しかし、事後的に見れば、非構成エンカウンターグループ3時間には明らかにメインの問いがあり、そのメインの問いに向かって跳躍台となるようなクッションのような問いがあるのだ。「やり残した問い」というのは、そういう意味でのクッションだったと言える。
  3. 非構成エンカウンターグループで沸き起こる問いは、非常に鋭く、深いものである。次の記事でも述べるが、鋭く・深い問いというのは、問いの質が非常に高いことを意味する。この問いは、クッションとしての問いであるが、やはりそれでも、問いの鋭さと深さは、他のワークショップで沸き起こるものとは段違いなのではないかと思う。(他の手法でも1日とか2泊3日ならできると思うけど、今回は3時間なのでやっぱりすごい)

以上3点のうち、とくに3に関連して今から「やり残したこと」について考察してみたい。それは、問いの射程が深いものであることを示すためである。少しばかり、ワークショップそのものとは関係がない(かもしれないが、関係あるかもしれない)哲学的な話が続くので、そこに興味がない人は飛ばしてもらって構わない(が、この記事で一番おもしろいところだとも思う)。


<やり残したことと時間的他者>

最初、僕は、「やり残したこと」という言葉選びの鋭さに驚いた。「後悔していること」ではなく、「やり残したこと」なのだ。その言葉が刺さったのは、キリスト教(ユダヤ教)の「残りのもの」思想が連想されたからということもある。「やる=行為」という領域で、「残って」いるものが問われているのだ。残っているものは、定義上、全体が把握されていないと捉えることができない。それゆえ、10代のときにやり残したと今思っていることは、10代のときにはやり残しているなぁと認識されることはできないのだ。

やり残したことは、残してしまったものなのだから、未来からの視点によってしか決定できない。もし、「将来やりの残したなぁと思うだろうことって、最近の日常にありますか?」という問いがあったとしたら、なんとも答えにくいだろう。ここらへんは、永井均がいっているような、現在の自分から見て、過去の自分や未来の自分はあくまでも他者である(空間的に異なる人間が他者であるように、時間的に異なる人間も他者である)ということを意味している。

そこからの連想で、非構成エンカウンターグループは過去や未来の自分との対話でも成り立つのではないかということを若干思った。対話したい過去のある時点の自分の写真や日記、未来のある時点での自分も目標などを円形に並べ、沈黙の中で3時間過ごすのだ。思考の整理のために、コーチングのような形で空間的他者が介在する必要があるとは思うけれども、そのような仕掛けさえあれば、ある程度可能なのではないかと思った。

思えば、哲学の祖であるプラトンは対話という形で哲学を提示した。自分との対話というのは中々難しいが、時間的他者という概念を導入することで、自分との対話が深まり、現在の自分の考えも深まっていくのではないだろうか。それは、別の言葉でいうと、「内省」の深化ということなのかもしれない。そんなことを思った対話であった。


<やり残したことそのものについて>

ちなみに、やり残したこととしては次のような分類が可能だと思う。

  • 時間軸でみたときのやり残したこと:「今の自分から見て必要だけれどもやっていなかったこと」を指す。実際に、非構成エンカウンターフループにおいては、まとまった文章を書く仕事についている参加者が、高校生のときなどにもっと文章を書いておけばよかったと述べていた。このように、今の自分の必要性などに鑑みて決定されるような「やり残したこと」がこのタイプだろう。
  • 空間軸でみたときのやり残したこと:「社会一般と比較してやっておくべきはずだけれどもやってこなかったこと」を指す。例えば青春時代の恋愛などを挙げることができるだろう。空間的に同じ場所を占めることができないという意味での他者が一般的にやっており、なおかつ社会的によいことだと思われていることで生じやすい。「正しい高校生活」があるかというのは疑問だが、漫画やドラマなどのメディアによって、近年は正しさが増幅されているように思われる。

大きくは、この二つに分類されるが、実は、もう一つメタレベルを上げることができる。

  • 時間軸や空間軸に関わらず端的に「充実しているべきだったのに、ある時点が充実しておらず、それに対して何らの行動も起こさなかったこと」というような「やり残したこと」がある。過去のその時点で、今の自分からの視線を介在させず、社会一般との対比も介在させず、端的に充実していなかった生というのは考えうる。通常、その場合、生を充実させるために何らかの行動をとるべきであるが、その状態では何らかの行動をとるエネルギーすらないことが多い。もちろん、充実していなかったというのは鬱であるというものに留まらず、「なんか楽しいのだけれども…」という心的状況も含むだろう。このような状況にいると当時も認識していながら、それにも関わらず行動が起こせなかったこと。けれども、今は充実していること。それは、過去そのものとして充実すべきだったという記憶の問題として、「やり残したこと」になる。

この論点に関しては、この視線そのものがやはり解釈学的なものなのではないかと問うこともできる。そのような「何となく楽しかったけど充実していなかった過去」というのは、今の「楽しいし充実している」目線から比較され捏造されたものなのかもしれないのだ。そういう系譜学的な探究を試みることもできる。けれども、それでもやはり、生の充実に関する限り、僕は考古学的な、過去そのものを充実させたいという願いは、ありえるのだと考えたい。

このあたりは、Twitterで考えたことがあるので、この記事の最後に引用して補足することにする。


 

以上、「やり残したこと」についての問いであった。実際に、非構成エンカウンターグループで、この問いについて対話したのは30分にすぎない。(もっと短かったかもしれない)。けれども、改めて考えると、ここまで思考を促進するような鋭さと、ここまで思考が届くような深さを兼ね備えた問いであったのだ。これは精緻にワークショップをデザインしたことがある人なら分かるように、非常に驚くべきことであろう。

次回の記事は、今回の問いをクッションにして、展開された問いについて考える。その問いとは「なんのために問いを立てるのだろうか?」という問いである。問いを立てることが当たり前になってしまっていたり、問いを立てることを無批判によいことだとしている人には、肝を冷やされるような、そんな鮮やかな問いである。


 

<Back Number>

ただ座るだけのワークショップ!? 非構成エンカウンターグループとは?

「沈黙」のデザイン論 (非構成エンカウンターグループで起こったこと1)

「やり残したこと」ありますか? (非構成エンカウンターグループで起こったこと2)

なんのために問いを立てるのだろうか? (非構成エンカウンターグループで起こったこと3)

非構成エンカウンターグループ、NVC、瞑想、マインドフルネス、ストーリーテリング、観察…。学びの「場」をジョハリの窓を用いて分析する!!


 

<補足>

(ちなみに一言ブログっぽいこと書いとくと、今日のお昼は唐揚げ定食でした)

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