なんのために問いを立てるのだろうか? (非構成エンカウンターグループで起こったこと3)

「やり残したこと」について問うた後、このワークショップで最も盛り上がった問いへと移行していく。それは「なんのために問いを立てるのか」という問いである。哲学をやっていると「問いを立てる」ことそのものは前提とされて問い返されることがない。また、ワークショップを創っている立場からすると、問いを立てることは前提とされていて、むしろどのような問いを立てればいいのかという技術的なところが問いとなる。しかし、この問いは、問いを立てることそのものを問いの対象としている再帰的な問いである。ニーチェが「真理への意志はいったい何に支えられているのか?」といって、哲学の屋台骨をなす「真理への意志」そのものを問いの対象としたときと、同じような興奮のある問いである。

今日の記事は、非構成エンカウンターグループで起こったこの問いについて、徹底的に考えていきたい。ちなみに、今回のワークショップでこの問いが湧き上がってきたのは、ほげほげさんの「つい場を回してしまう…。飲み会の場でも…。」という発言がきっかけだった。いや、正確にはそれ以前に、ヘルメがほげほげさんに「ほげほげの聞きたいこと、かめきちに聞けたの?」って問うたところが起点だった。このように、今回の非構成エンカウンターグループで最も中心的な役割を果たした問いが「ある二人の対話を客観的に観察した結果、生まれてきた問い」であったということは、次回に詳述するような、非構成エンカウンターグループの動的な要素を鮮やかに表していると思う。


<対象に基づく分析>

さて、「なんのために問いを立てるのか?」という問いに対する応答は、「対象」によって分析できる。もちろん、他の分析視角もあるだろうけれども、少なくとも今回の非構成エンカウンターグループで起こったことは、対象による分析が妥当だと思う。その対象とは何か。

一つ目は「他者」であり、二つ目は「場」である。他者に対する問いは、ある個人に対する問いである。場に対する問いは、非人称化された(物理的・非物理的を問わない)場に対する問いである。場に問うことと、他者に問うことは明確に異なる。ワークショップのテーマとしての「よい」問いと、友人の隠れた一面を発見するために「よい」問いは重なりつつも異なるのではないか。

ここで非常におもしろかったのは、ワークショップデザイナーやファシリテーターとして熟達すればするほど、つまり場に対する問いの立て方がうまくなればなるほど、他者に対する問いを問えなくなっていくのではないかということである。例えば、ワークショップやファシリテーションの技量があがっていけばいくほど、懇親会の席でもうまく皆が受け答えできるような問いを選んでしまい、それを皆に振っていき場を回そうとするということになる。そして自分で立てた問いについて自分が応えることはあまりない。そういうファシリテーターの「職業病」ともいえるものがあるのではないかと思う(かく言う僕もその一人)。

ワークショップデザインの経験など何もいないのに一対一で話すと鋭い問いをたくさん投げかけてくる友だちがいる。そういう友だちは他者に問うことの技量が生まれながらにして強いのだと思う(僕の彼女はワークショップを創ったりもするが、この他者への問いが鋭い)。これは、他者に対する問いが「特殊性」を志向するのに対して、場に対する問いが「一般性」を志向しているということにも関係している。それゆえに、場に対する問いの立て方は訓練することもできるけれども、他者に対する問いの立て方は訓練が難しく、天性の才能がモノをいう領域だと思う。むしろ他者に対する問いの「よさ」なるものは、訓練よりも、その特殊な他者への「関心」によって支えられているように思われる。他者への関心が薄いワークショップデザイナー(僕もその一人かもしれない)は、技量よりもその関心ゆえに、他者に対する問いが下手なのかもしれない。

 


<目的―手段関係による分析>

しかし、ここまでは「対象」に関する分析にすぎず、「なんのために問いを立てるのか?」という問いへの応答としては不十分なように思われる。その問いに対する応答として、「問いを立てることそのもの」についてが「目的」なのか、それはあくまで「手段」なのかという軸で分析することを試みてみたい。「問いは答えを前提としているのかそうでないのか」というのは哲学的にも難しい問いである。だが、一般的には「問い」は「答え」を前提としているといえるだろう。それゆえ、ここでは、答えを前提としていないことを問いの自己目的化と呼ぶ。

他者に対する問いとして「なんで今日はオシャレをしているの?」と聴いたとき、それはその問いを問うことそのものが目的なのではなく、「このあとデートがあるから」といった答えを引き出すことを目的としているはずだ。そこではあくまで問いは手段である。

けれども、問いそのものが目的となるケースがある。そこでは、往々にして「不安」という感情が裏に隠れている。例えば、なんとなく初めて会った人と居心地が悪くて「どこからいらしたんですか?」と問うてしまう場合である。ここでは、問いの答えにはさしたる興味もなく、その場の沈黙を破りたいがために、相手に興味があるというメッセージを伝えたいがために、問いを問わずにはいられなくなっている。確かに、沈黙を破りたいという目的があるように見えるが、それはあくまでも動機であり(しかも自覚していない)、やはりこの問いは目的を持たないものであると言っていいだろう。

一方で、場に対する問いに「目的―手段」による分析は当てはまるのか。手段としての場に対する問いというのは、ワークショップデザインにおける問い、つまりワークショップを創って生み出すための問いである。これは非常に分かり易く、その場で何らかの答え(あるいは応答)を出すことを目的としているような問いである。ここではあくまで問いは手段であり、参加者の知的好奇心を刺激するということなどが目的としてある。そこでは、どの参加者もその場に抱擁するような、柔らかい優しい問いが好まれる。

では、目的化しているような場に対する問いというのは何があるのか。僕はこれこそが「哲学的」な問いであると思う。例えば、トマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどういうことか?」という問いがある。このようにいかなる問いを立てることができるかが哲学の要諦であり、それによってどんな答えが出るのかということに大した興味はない。学問における問いというのは真理を探究するための問いであり、それがゆえに学術共同体(大学など)が真理を追究するための学問共同体として定義されるが、やはり哲学には、真理を知るという目的があるのではなく、むしろ真理を知ることすら手段となって、ただ「子ども」の「遊戯」のように、問いがどのように変化していくのか、どこまで考えぬけるのかということに興じているという側面があると思う。そういう意味で、やはり哲学は何かの役に立つのではない(もちろん「有用性」という尺度の外側にあるという意味で)。有用性を超えて、深い問いなのである。一方で、ここには、数々の前提に裏付けられた、体系の中の問いとしての、科学的な、重い問いというのもあるだろう。(深さと重さの差異については、以前書いた記事を参考)


<分析の統合>

以上のような分析を形式的に統合すると次のような表にまとめることができるだろう。

他者への問い

場への問い

手段としての問い

(答えを前提とする問い)

  • 鋭い問い
  • 動機:興味
  • 他者のことを純粋に知るための問い
  • 特殊的な問い
  • 訓練による技術というよりは関心が強く反映する。才能も大きく関わる。
  • 例:なんで今日はオシャレしているの?
  • 柔らかい問い
  • 動機:場づくり
  • ワークショップで扱われる問い
  • 一般的な問い
  • 訓練で熟達可能
  • 例:どうして他者とうまく関われないのだろうか?

目的としての問い

(答えを前提としない問い)

  • 軽い問い
  • 動機:不安
  • 居心地の悪さなどを解消するための問い
  • 一時的な問い
  • 訓練で熟達可能
  • 例:今日はどちらからいらしたのですか?
  • 深い問い=哲学的問い
    重い問い=科学的問い
  • 動機:遊戯
  • 哲学的な問い
  • 普遍的な問い
  • 知識を必要としつつも、天性の才能にも大きく左右される。
  • 例:コウモリであるとはどういうことか?

 


<再び、非構成エンカウンターグループに戻って>

余談ではあるが、以上のような熟達の仕方は、「内在/外在」あるいは「内部/外部」という対を用いながら、「大人/子供」という対を考えることである程度、整理できるように思われる。

子供はすぐに、外部の視点に立ちたがる。例えば、幼きときに鬼ごっこをした人は次のような経験をしたことはないだろうか。とくにルールも決めずに鬼ごっこをしていたはずが、ある日突然に「バリア!」という一言とともに、タッチしたら鬼が変わるというルールが音もなく崩れていくということを。これは、ルールを決めることができる超越者に子供が自分を重ね合わせているのだ(もしかしたら日頃常に同一視しているのかもしれない)。つまり、子供は内在し続ける力を持っていないのである。<子供的>であるというのは、超越者と自分を重ねあわせ、外部に立とうとすることである。しかし、既存の秩序に対して、すぐにメタ的な視点を持ちたがる子供のような視線は、傍観者の視線でもあるが、神=創造者の視線でもある。だから、子供のような視線だからといって、それは批判的な意図を持って述べているわけではない。

けれども、大人は超越的な視線にたって、外部からの視線を保ち続けようという努力をすることはない。大人は、現実には超越的な立場に立つことはできないということを知っている。それゆえ、既存の秩序の内部に存在しつつ、その秩序に最大限適応して、したたかに生き抜こうとするのだ。<大人的>であるという性質は、このように徹底的に内在化しようとする態度のことを指す。このような態度は、ときにリアリストという態度と重ね合わされ、現実をよく知っているということを意味することもあるが、それは決していつでも褒められたものではない。なぜなら、そこにはこの現実はたまたま成立しているというだけで特権的な地位を持っているにすぎず、あくまで可能世界の中の一つであるかもしれないという視点が欠けているからだ。それの欠如は、理念の欠如にもつながるし、よくもない現実なのに現実追従主義をとってしまうことにもつながる。

蛇足になるが、以上のような<子供的性質>と<大人的性質>は、必ずしも子供や大人だけが持つわけではない。「男よりも、男っぽい(=男的な)、女」という言い方が成り立つように、性質は実存とは無関係に成立する。例えば、「大人よりも、大人っぽい、子供」を考えてみよう。神ならざる子供は、大人の保護化でしか自らを超越的な存在として扱うことはできない。大人の保護化から外れ、自分で生き抜かなければならなくなった子供は、大人以上に、大人である。大人以上に、したたかに世の中を生き抜こうとする。それは、そのような状況に置かれた子供の(人を出し抜こうとする意味での)力強い生命力を見たことがある人ならば、納得してくれるはずだ。

この非構成エンカウンターグループで問われていたのは、実際は、以上のような「<子供>と<大人>の対立」についてであったのだろう。「子供のような態度」であることを指摘されたとき、それは批判だと受け止められ、ついつい「おれは大人だ」といってしまいたくなるのだろう。ワークショップを創るということは、自分の創ったその場に内在することはできないということである。だから、ワークショップを創ってばかりでは、ワークショップを楽しめなくなってしまうのではないか。ワークショップデザイナーというアイデンティティを持つ人に対して、このような問いを投げかけるという事態が起こり、そこではその問いから逃げられないという場の構成が、非構成エンカウンターグループでの学びを濃くしているという側面は確実にあると思う。

しかし、いややっぱり違うということもできるだろう。子供という性質が、子供という実存とは無関係に成立するのであれば、一人の人間が<子供的>かつ<大人的>であることもできるのではないか。それは、現実の秩序について懐疑的な視線を持ちつつも、それで超越的な目線にたって相手よりも優位な立場にあると自分を慰めることを許さない。現実に懐疑的な視線を持ちつつも、それでも、この現実の中でうまくやっていくということである。可能世界に開かれた視点を持ちつつも、現実世界で生きていこうとするのである。なぜなら、<子供>は新しい世界を実際に創る(現実化する)ことはできないからである(教育で言われているような、子供の無限の可能性とは矛盾するが)。それゆえ、「問う」という行為は、どこまでも子供の行為なのだろう。

ソーシャルとアカデミックの融合とは、おそらく、子供と大人の融合を意味するのだと思う。


<補論>

また、本論では扱わなかったが、「問い」というものの美しさに魅せられてしまった人が幸せになることはできるのか?ということについては、また機会を改めて論じてみたい。というのも、哲学や問いは「大事」だといわれているが、それは「幸せ(快)」のために大事なのではなく、「(公共)善」のために大事なのであるというようなことを最近考えているからだ。つまり、哲学をしても幸せにはなれない。それは上に述べたように、現実は大人の世界なのに、哲学は子供の領域にあるからだ。

にも関わらず、哲学は重要である。その間隙に「哲学や問いは美しい」ということ、あるいは「哲学や問いは子どもが砂場で遊ぶように興じることができる」ということが存在しているのではないかと思われる。重要性を以ってして、内発的動機づけ(というより趣味判断)に訴えることができれば、哲学や問いは公共的な場で命を吹き返すのではないかと思う。それゆえに、哲学や問いは「芸術(アート)」だと言われるのだろう


<Back Number>

ただ座るだけのワークショップ!? 非構成エンカウンターグループとは?

「沈黙」のデザイン論 (非構成エンカウンターグループで起こったこと1)

「やり残したこと」ありますか? (非構成エンカウンターグループで起こったこと2)

なんのために問いを立てるのだろうか? (非構成エンカウンターグループで起こったこと3)

非構成エンカウンターグループ、NVC、瞑想、マインドフルネス、ストーリーテリング、観察…。学びの「場」をジョハリの窓を用いて分析する!!

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