非構成エンカウンターグループ、NVC、瞑想、マインドフルネス、ストーリーテリング、観察…。学びの「場」をジョハリの窓を用いて分析する!!

ここまで、何度かにわけて、非構成エンカウンターグループについての概要を説明したあと、実際に筆者が非構成エンカウンターグループに参加したときに場から生まれてきた問いについて考えることで、非構成エンカウンターグループがどれだけ深い学びを起こすことができるのかということを見てきた。ここでは、場から発生する問いが学び深いものになる理由について、ジョハリの窓を用いながら考えてみたい。


<ジョハリの窓とは?>

ジョハリの窓とは、サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリー・インガム (Harry Ingham)によって考案された、認知とコミュニケーションに関する理論である。

ジョハリの窓では、自己認知と他者からの認知の二つの側面から、ある人間の心理を分析するものである。自己認知に関しては「自分の知っている自分」と「自分も知らない自分」が存在する。一方で、他者からの認知に関しては「他者の知っている自分」と「他者の知らない自分」が存在する。

以上の分析を表に整理することでジョハリの窓が完成する。

自分の知っている自分

自分も知らない自分

他者の知っている自分

 

開放の窓

公開された自己

Open Self

 

 

盲点の窓

自分は知らないが他者に知られている自分

Hidden Self

 

他者の知らない自分  

秘密の窓

隠された自分

Secret Self

 

 

未知の窓

誰も知らない自分

Unknown Self

 


<ジョハリの窓の使い方>

よく誤解されるが、ジョハリの窓は分類するためだけに存在するのではない。ジョハリの窓は、分類を通して、どのようなコミュニケーションをとれば、より開放された自己が大きくなるかということを整理するためにある。その方法については、次のように整理できるだろう。

  • 「語り」や「自己開示」を行うことで、「Secret Self」が「Open Self」になる。語ることで、自分は認知できていたが他者には認知されていなかったものが、認知されるようになるから。
  • 「問い」や「フィードバック」によって、「Hidden Self」が「Open Self」になる。自分で気付いていないことを他者に質問されることで、自分が気付くきっかけになるから。
  • 「内省」を行うことで、「Unknown Self」が「Secret Self」になる。自分も気付いていなかったものを発見するきっかけになるから。
  • 「観察」を行うことで、「Unknown Self」が「Hidden Self」になる。今まで気付いていなかった他者の一面に気付くきっかけになるから。
  • 「内省」&「語り」あるいは「観察&問い」が行われるような「場」が存在すれば、「Unknown Self」が「Open Self」になる。

これらの手法を図にまとめると次のようになる。これを見ると、教育手法のほとんどは、この中のどこかに位置づけることができると思う。

スライド1


<ジョハリの窓と非構成エンカウンターグループ>

これまでジョハリの窓の基本的な理論と応用的な使い方を見てきた。果たして皆様は、非構成エンカウンターグループにおいては、ジョハリの窓で考慮されているような窓と窓の関係の移動が全て網羅されていることに気付いたであろうか。

一つ目の記事二つ目の記事で書いたように、非構成エンカウンターグループは「沈黙」を非常に重んじる。それゆえ、「内省」と「観察」が活性化する。ワークショップの前半で「内省」と「観察」が準備されるということは、「Unknown Self」が「Open Self」になるような「場」の前提が整っているということである。

沈黙の中、非構成エンカウンターグループは、徐々に問いと語りが交叉する言語的コミュニケーションの場となる。ここでは、さきほど内省で得たことが「語られ」、さきほど観察したことが「問われる」。そして、「場への集中」と「緊張感」がデザインされている中、問いへの応答すらも観察され、新しい問いを引き出すことにもなる。そして、今まで語ることのできなかったことが「語られる」ことになる。

このように、非構成エンカウンターグループは「沈黙」による「内省&観察」を前提として「語り&問い」が展開し、その「語り&問い」が「内省&観察」を生み出すような動的な「場への集中」がデザインされている。どこまでが意図的にデザインされているのかは分からない。しかし、事象を分析することで、そのような動的なうねりを見て取ることができる。

最初の記事で、非構成エンカウンターグループは、NVC(Non-Violent Communication)と非常に近いと書いた。しかし、近いけれども、違いが幾つかある。上にみたような動的なうねりはNVCにはない。NVCはあくまで「自己開示」に焦点を絞って、それを行うことができるような「安心感」をデザインしている。もちろん、自己開示にカードを用いて応答するものの、それは「Hidden Self」を「Open Self」にするようなものではなく、自己開示は受け取られたという安心感を更に場に付与するという意味合いが強い。

座禅も瞑想も古くから自分を知るための方法として発展してきたが、「Unknown Self」が「Secret Self」になることに焦点を当てている。ストーリーテリングという手法は、「Secret Self」を「Open Self」にするものである。先学期の寺子屋ゼミで行った観察のワークショップまさに「Unknown Self」を「Hidden Self」にするという効果に絞ったものだろう。また、Mindfulnessと呼ばれている対話は、「Hidden Self」を「Open Self」にする効果があると思う。

僕が今まで体験してきた学びの場は、以上のように、この枠組みの中に整理できる。しかし、非構成エンカウンターグループは、動的なうねりをもってジョハリの窓を構成する要素を次々と生み出す。それゆえ、シンプルがゆえに奥深いのである。

もっとも、一つひとつの要素に絞り込んだ場の方が、それ単体としての効果は高いということも忘れてはならない。NVCは、語ることができなかった人間が語ることができるようになるという変化をもたらすこともある。ただ内省していても気づかない自己に、10日間も瞑想すれば気付くかもしれない。ストーリーテリングの場で語られることは、他者の記憶に深く刻みつけられるかもしれない。観察に集中することで、思っても見なかった他者を知ることができるかもしれない。

それゆえに、非構成エンカウンターグループは、長い時間(1週間など)をとって、自発的に集まったメンバーが行われることが理想とされているのだろう。しかし、以上の考察に基づけば、自発的に集まったメンバーではなくても、時間さえあれば、NVCやストーリーテリングを先行して行うことで、十分な効果が期待できるかもしれない。また、時間がなくても、自発的に集まったメンバーで自己開示の準備などができていれば、大きな効果を生むだろう(僕が参加したのは、このタイプの非構成エンカウンターグループであったのだと思う)。このように、非構成エンカウンターグループの特性を理解することで、(構成的エンカウンターグループとは違う形で)もう少しプログラム化したものを創りだすこともできるかもしれない

スライド1


以上、ジョハリの窓に基いて、非構成エンカウンターグループについて考察してきた。

今回参加した非構成エンカウンターの案内文に、非構成エンカウンターグループはワークショップの「源流」であるということが書かれていた。

ここまで考察してきて、はじめてその意味を切実に痛感することができた。

ほんとうに、シンプルで奥深いワークショップである。秘密基地Collegeでもぜひ開催していきたいものである。


<補足>

対話というのは、問いと語りの複合体であり、ジョハリの窓でいうところの「Unknown Self」にアクセスすることはできない。もっとも、対話をしながら観察や内省が行われる(むしろ人によっては対話が観察や内省が促される)ことから、そのように断言することはできない。しかし、やはり言語を用いた対話には、すでに自分か他者に見えているものを記号によって対象化するという機能しかない。

けれども、可能世界への扉をひらくのは言語であり、言語がなければ公共世界が形づくられることはない。したがって、公共的な問題を討議するときの対話と、自己認知を深めるときの対話は、明確に異なるのではないか。もっといえば、そこでは「言葉」というものの性質が、すっかり異なっているのではないかと思われる。

ロック以来の古典理論では、言葉は何か指し示す対象を持っているラベルであるという立場をとる。しかし、フレーゲ以降、言語哲学は関数的な観方をとってきた。そこでは、ラベルが何を指し示しているかに関わらず、その部分にはまるピースとしての言葉が考えられている。この立場の違いは、共感と対話についての関係を考察する途へと僕らを案内する。

もしかすると、すでに対象を共有しているにも関わらず、言語のフレームワーク(文法)が異なる者同士が、「言葉を振り回して」言語のフレームワークを突き合わせ、境目を曖昧にしていく作業が共感なのではないだろうか。とするならば、共感は公共的な事柄には適用できない。数学に代表されるような外在化した記号が公共的なことについて対話するためには必要だからである。

しかし、日常生活で、厳密に言葉を操っている人はいない。学校でも、数学は一番人気のない科目だし、数学の好きな人の何人かも記号操作法としてではなく、算数の延長線上で数学が好きであるに過ぎないということを考えると、公共的なことを市民全体で討議するというのはそもそも無理なのではないかという気がしてくる。

それでも、やはり、共感と対話を繋ぐような理論というのは存在しうる。まだ明確になっていないが、その理論を明らかにしたとき、手法として落とし込むことができるようになるだろう。そこで初めて、「ソーシャルとアカデミックの融合」ということ、あるいは公共世界の創出ということ、または「日常生活と政治の接続」ということが現実のものとなるのだろう。

対話と共感は、非常に近いところで接しているように思われるが、それがゆえにこそ、両者の間の溝は深い。


<Back Number>

ただ座るだけのワークショップ!? 非構成エンカウンターグループとは?

「沈黙」のデザイン論 (非構成エンカウンターグループで起こったこと1)

「やり残したこと」ありますか? (非構成エンカウンターグループで起こったこと2)

なんのために問いを立てるのだろうか? (非構成エンカウンターグループで起こったこと3)

非構成エンカウンターグループ、NVC、瞑想、マインドフルネス、ストーリーテリング、観察…。学びの「場」をジョハリの窓を用いて分析する!!

 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中