神は死んだと誰かが言った

まだそんな遠くない過去に誰かが神は死んだと宣言した。神は自然に死んだのか、誰かに殺されたのか、それはおそらく神のみぞ知るといったところだろうか。

しかし、まだそんな遠くない過去にはどうやら神は死んではなかったらしい。だからといって、神は生きていたとは言えない。あくまで死んでなかったとしか言えないのが神が神たる所以だろう。神は人間ではないから、死とか生とかそういう概念を持たない。神は死にはしないかつ神は生きもしない。

とすると、神は死んだという言明は一体何を示しているのであろうか。

神は死という概念も生という概念もそのうちには持っていないのだから、この言明はその示しているところには少しばかり解釈を入れ込まざるをえない。

神は死なないというのはその神たる所以だから、どうやら神の存在そのものは否定されてはいない。おそらく死んだのは人間の中に想起される神だろう。

人間は勝手に頭の中で神を死んだことにしてしまった。神の存在証明も完成していないままに。そもそも神の存在は人間の理性によっては証明することはできない。

証明することができないということは、神が存在しないということを意味するのではない。ただ、神がいるかどうか人間にはわからないということだ。

しかしこう言うこともできる。そもそも神という言葉がある時点で神は存在しているのだと。一理ある。でも、神のプレゼンスは知覚できない。シニフィアンはあるが、シニフィエはブラックボックスだ。

神は気まぐれに人間の社会に降りてきてはフーッと息を吹きかける。息を吹きかけられた人間は覚醒する。そして神のことばを聞くことができるようになる。

しかし神の姿は相変わらずわからないままだ。声だけが聞こえてきて、命令を下す。そういう捉えどころもないし、知覚することはできない存在としての神は人間社会には存在し続けてきた。これを以て神の存在証明はすることはできない。

人間が神でないものを神だと信じてきた可能性がそこで消えるわけではない。

だから、神という言葉が存在し、それを信じてきたという”実証的”な事実からはやはり神が存在するとかしないとかは考えることはできない。

神というプレゼンスは知覚できないから、人間はあらゆるリプリゼンスを夢想してきた。偶像、幾何学、儀式、現人神、建物、などなど。

敬虔な信者だけが、あるいは偶然によって一部の人が神のプレゼンスの一端に触れることができた。(とされている)

人間はそうした生の神に触れようと色々努力してきた。厳しい修行によって、熱心な祈りによって、あるいは必死に夢想することで。

確かにある特定の人物はそうした活動を通して、神に触れることができたのであろう。

では一体何のために神に触れようと努力してきたのだろうか。

人間の弱さゆえか、永遠不変のものを求めるという本性ゆえか、未知のものに対する憧れか、禁忌を犯すことの快感か、世界と自己との一体化か、苦しみから逃れるためか、全能感を得るためか、おそらく様々な理由からであろう。

ずっと神を求めてやまなかった人間はなぜ神を自らの頭の中から消し去った(と思っている)のだろうか。

今まで神がいるという前提で話してきたが、神がいるかどうかわからないためあくまでいるということを前提に話しているにすぎない。推定無罪である。

そして個人的には神はいると信じているから、神を前提にしているにすぎない。至極単純明快ではなかろうか。

あくまでも言葉(言論)の中では価値自由に振舞うことはできる。しかしながらその言葉を支えている根拠、形而上学的な基礎においては価値自由に振舞うことは到底できない。野暮なことを言ってしまった。ここで神はいるとしたのはそうした形而上学的な根拠の価値提示に過ぎない。

さあ続けよう。なぜ人は神を自らの頭の中から消し去ったのだろうか。

よくある説明は、科学がそうした非科学的なものにとって代わり、科学の方が世界を説明出来る度合いが高いから、神を必要としなくなったからだというものだ。

なるほど確かにそうかもしれない。

ここで問題になっているのは、神を必要としなくなったためということであり、これはまさに人間の頭の中でのみ神を消去したということだ。

神を持ち出さなくても、世界を説明出来るようになった。ただそれだけのことだ。

これで神はいなくなったということにはならない。

これは、人間が見える範囲だけで人間の見えている世界を人間しか持ち得ない方法で記述しようという宣言である。それが正しい根拠なんてどこにもない。

正しい根拠がないのに、なぜそれを正しいと見なしてるのか。それはもはや信仰の問題でしかない。

いつかチーターやトンボが人間と会話できるようになったら、彼らから異議申し立てが来るだろう。俺たちにはそんな風に世界は見えていないと。

科学(近代自然科学)は、人間が認知できる範囲で世界を説明しよとする非常に禁欲的な宗教だ。ただそれだけだ。

神を消し去った理由のもう一つは神なんか信じなくても生活できるようになったからだろう。むしろ神を信じていることの方が生き辛くさせたのかもしれない。

神は弱者がすがるものでしかないものになった。

これまた人間的なあまりにも人間的な事情からである。もちろん人間のことだからそうなることが当然なのだが。

神を消し去った代わりに、理性、貨幣、愛、自由、平等、人間関係、自分が自分である理由、地位や名誉、快楽、消費物、美味しい食事、今日よりもいい明日、成長、ビックデータなどなどがその間隙をそれまで以上に埋めていった(いる、いく)のだろう。

ここからはトーンが変わる。前振りが終わったといったところか。

我々はこの世界の説明をただ求めているだけである。その表象のされ方が異なるだけで。そういう意味では人間とはかくも思考に限界があり、同じことを繰り返す存在でしかないことに嘆息が漏れる。いつの時代もパロディーの中に生きるしかない。そんな時代に神にすがって生きていくのは弱い人間である。そういう永劫回帰の世界においても「もう一度!」と言って地に足をつけて生きていかなければならない。そうすることで人を超えるのだ。などと嘯くつもりはない。

すがれるものがあるならば、なんだってすがる。本当はそうしたいのだろう。

確かに神を頭の中からは消し去った。だからと言って何も信じていないことはないのだろう。何かにすがって生きてるのだろう。藁にもすがるような思いで。

それを気取られまいとして、戯けて生きているのだろう。対話だの共感だの言っているが、神聖なベールで包まれた自分という存在は傷つけて欲しくないのだろう。

神がいなくなってから、あるいは自らの信仰を告白しなくなってから、コミュニケーションがはかどらなくなったのだろう。もはやコモンセンスは存在しない。

話に手触りがない。勝手に共感される。プレゼンスを欠いた状態で!

死体も見てないのに!歴史も知らないのに!土地も知らないのに!神も見てないのに!

想像力が大事だと言われる。それはもちろんその通りだ。でも一体なにを想像しているのだ?なにを投影しているのか?大好きで仕方ない自分か?

想起すべき像も知らずに、どのような想像が可能だろうか?

僕にはわからない。一体あなたがなにを想像しているのかも。同じものを想像したい。同じものを見たい。同じ音を聞きたい。同じものを触れたい。同じ匂いを嗅ぎたい。同じ味を感じたい。同じものを考えたい。でもそれは嫌がられる。

非連続で閉じている人間はそうやって誰かとの間にあるいは何かとの間に連続性を感じたい。自分が氷のような存在ではなく、水のような存在であると感じたい。

誰かと何かと一体化する恍惚。その一方で自分が溶けていく恐怖。バタイユがeroticismと呼ぶところの欲求だ。この欲求はある意味では暴力的だが、こうした欲求をはなから否定し望まないような無関心よりは優しい。だからこそ人間よりは世界と一体化したいという人が一定数現れる。なぜなら世界の方が優しいからだ。それを馬鹿にする権利はない。

自分にわかる範囲でしか、共感はしたくない。わからないものには蓋をしたい。

わかる範囲だけで生きていきたい。これは非常に科学的な態度で謙虚の姿勢ではないか。神を頭から消し去ったのはそういう事情が一つにはあった

わからないことには触れないのが正しく禁欲的な生活のモデルとなった。

わからないことを言う人にはわからない自分を恥じるのではなく、わかるように説明しろというようになった。あるいは自分にわかるように変更しろというようになった。なんとも不遜な態度ではないか。謙虚であるはずの科学的態度がこんな不遜な態度を一方ではもたらすとは。逆説めいたことを言って悦に浸ろうというわけではない。僕にはわからないのである。これが何なのか。なぜそういう態度がここまで天下の大道を行けるのか。

共感だ!自由だ!平等だ!人権だ!ベイルートもだ!

もうリプリゼンスの世界は耐えられないところまで来ている。リプリゼンスの世界はその基盤たるプレゼンスをアクチュアリティを失いつつある。それでもそうしたプレゼンスを巧妙に隠して、リプリゼンスの議論しかしない。それは泥沼にもなるわけだ。日常から死は隔離される。戦場においても人と人とは向き合わない。口では民主主義だと言いつつ、実態はやりたい放題。多様性を尊重と言いつつ、何が多様性なのかわかっていない。シニフィエ(プレゼンス)とシニフィアン(リプリゼンス)が乖離した世界は長くは続かないだろう。そんなのには耐えられない。それに目をつむっていられるのも今の内だけだ。いつか来るであろう我々に肉薄してくるプレゼンスの重みにリプリゼンスの世界でしか生きないと決めた我々はどこまで耐えうるか。プレゼンスから乖離したリプリゼンスには必ずプレゼンスの方から挑戦が来る。自らの主体性を回復しようと挑戦が来る。その時にプレゼンスは新たな意味(リプリゼンス)を持つようになる。そうやって言語は変遷してきたし、歴史は変遷してきた。根拠なんてないと嘯くことはもはやできない。物理的に。

ハイデガーは真理とは隠されなきこと(reveal–ヴェールをとること、神学においては啓示と訳される)だとした。ヴェールとはここではリプリゼンスのことで、真理がプレゼンスなのかもしれない。これはかなりの暴力関係である。ヴェールをとって暴かれるのだから。これは人間に真理を知ることの愉悦をもたらすであろう。一方でそうやって開示されてしまったプレゼンスに耐えなければならない場合もある。真理とは概ね人間には手に負えない場合がある。それに耐えるために我々は概念を発達させてきた面もあるだろう。手に負える形でのリプリゼンスである。こうしてプレゼンスとリプリゼンスは闘争してきた。その闘争は現状かなり高まっていると見える。プレゼンスの重みに耐えうる思考の力を磨く必要がある。勉強なんて意味はないという連中はもはや哀れむこともできない。

我々は形而上学的な基礎なしには生活できない。思考もできない。そしてその形而上学的な基礎は何かしらのプレゼンスから形成される。あるいはそれは自分の中の公理のようなものであるかもしれない。それは感性からしか来ないものだ。感性はプレゼンスに最も近い。共感もここからしか来ない。同じものを見てもいない。聞いてもいない。味わってもいない。嗅いでもいない。触ってもいない。こんなところからは共感も生まれるわけはなかろう。そして想像力も生まれるわけもなかろう。

もうやめにしよう。

ここで問いたかったのはただあなたは何を信じているのかということだけだった。それなのに、それがぼやける形になったのは書き手の技術不足だ。申し訳ない。論理的な文章でもない。がしかし、とりあえず公共の空間に置いておく。

最後に。

自分が何を信じているのか、その形而上学的な基礎は何なのか、そしてそれはなぜなのか、まずはそこからだ。

 

 

 

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