「わたしはいつも死んでいる」。記憶と絶望と、ときどき希望

 

パソコンを開く度に不意に現れる「アップデートしますか?」がそろそろうざったくなってきたので、アップデートをしてみた。再起動されてみると、デスクトップの壁紙がすっかり初期設定になってしまっている。

おそらくMacを買って以来ずっと、大好きなイラストレーター・majoccoさんの、『いまどき煙草を喫うなんて、バカか、ロマンチストだけ。』というコピーの入った、かっこいい女性の絵を壁紙にしていた。それを不意に、変えようと思った。相変わらずmajoccoさんの絵だけれど、別のものに。それがこれ。

 

Image2

 

『私達はいつか死ぬのよ』

絵もさることながら、コピーも毎度好きだ。特にこれは。

 

そう、わたしたちはいつか死ぬ。それだけは今のところみんな平等だ。不意に訪れたり、ゆっくり迫ってきたり、形はそれぞれだけれど、結果はみな同じ。いつか必ず、肉体の生命活動の終りがやってくる。

 

昨晩、最寄り駅の電車を降りるとき、一瞬胸がギリッと痛んだ。心臓なのか肺なのか肋骨なのかは知らないが、胸の下のあたりの奥が、ギリギリッと。それはまぁ数秒後には消えてしまうような類の、よくありそうなよくわからない症状なのだが、わたしは熱っぽくも冷めてもいない頭でふと考える。

「この痛みが深く強く激しくなったとき、わたしは死ぬのだろう」。

何気ない痛みの先に、死がある。それは延長線上の出来事として、至極まっとうなことだとわたしには思える。だからわたしは明日死にうるし、60年後にも死にうる。

 

ふと、かつて谷口と「ジェットコースターが嫌いだ」というだけの談義でめちゃくちゃに盛り上がったことを思い出す。

「ジェットコースターが好きな人はさ、『そんな怖がらなくても死ぬわけじゃないんだし〜』って言うけど、違うんだよな。物理的に死なないのはわかってても、あの内蔵が浮いた瞬間にさ、死ぬよな。観念的に死ぬ。」

『観念的に死ぬ』、谷口のその台詞を思い出したとき、奇しくもまさにその日、彼と昼間に散々議論していた内容について、風が吹き抜けるように、わたしなりのひとつの終着点を見た。

 

わたしはいつも死んでいるんだ」。

 

 

散々尽くされている議論だが、わたしは“ひとり”ではない。正確に言えば、わたしと呼ばれるものがすべて同じ性質を一貫して持ち続けているはずがない。

現在を取ってみても、1日中好きな仕事をしていたいと考える「わたし」も、健康のために泳ぎにいく[わたし]も、好きな人と一緒にいるとつい時間を無視してしまう<わたし>も、すべてわたしと呼ばれる。仕事をしたい「わたし」からしてみると、好きな人とだらだら過ごす<わたし>は排斥すべき存在であり、もはや「わたし」と<わたし>は他人だとさえ言いうる。

時間軸を加えるともっとわかりやすい。過去の“わたし”と今の{わたし}はまったくの他人と言っても差し支えない。官僚になると言っていた浪人生のころの“わたし”と、物書きになると言っている今の{わたし}は、ほぼ180度違う価値観で生きている。

 

ひとつの「わたし」の“死”を、“終り”を、わたしは失恋するときに強く感じる。ああ、この人をこよなく愛していて、恋人になりたいと深く願った「わたし」は死んでしまうのだと。“死”それ自体を体感として覚えるのは、むしろ次の恋が始まったときだ。ああ、あんなにあの人しか見えないと思っていたあのときの「わたし」は、もう死んでしまったのだ、と。

えてしてわたしたちは、わたしというものに強固な一貫性を持たせたがる。そのせいで、かつてあんなに愛していた人を忘れて別の人を愛するとき、「忘れてしまう程度のあの人への愛は偽物だったのではないか」などと言い出す。それは大きな間違いだと思う。あのときあの人を愛していた「わたし」はもう死んだ、それだけのことだ。仮にその相手と復縁したとしても、それはまた別の<わたし>の始まりであって、一度死んでしまった「わたし」はもう二度と帰ってはこない。

環境が変わるとき、価値観が変わるとき、愛する人が変わるとき。変化の節目に際して、人はひとつの「わたし」の死を感じる。いや、正確に言えば、新しい<わたし>の誕生を悟る。新しい<わたし>が立ち現れる瞬間を目撃する。ひとつの「わたし」の死は、先の失恋の例と同じく、死の瞬間ではなく後になって体感されるものであろう。

 

けれど、「わたし」が死ぬのははたして目立った変化の節目だけだろうか?

もっと解像度を上げれば、人間は終始変化している。昨日初めてスタバのチョコスコーンを食べたのだが、あれは味というより温めた直後のにおいが反則だ。昨日まではそもそもスタバは高いのであまり行かないし、行ったとしても安く済ませていて食べ物など見向きもしていなかったが、そんな[わたし]は昨日死んで、きっとしばらくスタバに行けば、チョコスコーンのにおいの誘惑に誘われる“わたし”がのさばるはずだ。そんなどうでもいいような次元でも、ひとつの[わたし]は小さく死んでいる。

 

そう考えると、いつもわたしのどこかで、「わたし」や<わたし>が死んでいる。

そしてそれと同様に、いつもわたしのどこかで、“わたし”や[わたし]が生まれている。

 

さて、あなたはそれを希望と思うだろうか?絶望と思うだろうか?

 

わたしにとって、「わたし」や<わたし>の死それ自体は事実としてそこにあって、それ以上でも以下でもない。ただ、「わたし」の死後、「わたし」の存在自体をそっくりそのまま丸ごと忘れてしまうという状態は、わたしにとって限りなく深い絶望だ

そういえばあのとき、「わたし」は、大好きだった彼氏と色違いのバスケの練習着を買って、着る度に幸せになっていたではないか。

彼を好きだったこと、彼と付き合っていたこと、彼と同じバスケ部だったこと、それらはもちろん覚えている。けれど、練習試合などの大事な場面でお揃いのTシャツを着て願かけていた健気な「わたし」については、思い出す瞬間まで、今のわたしの記憶の中からすっぽり抜け落ちていて、もしも思い出さなければ、一生失われ続けていたであろう。それは、たしかに歩み、踏みしめて、わたしらしい足跡をつけてきたはずの地面が、振り返ってみるとまっさらだった、そんな虚しさに似た感覚をわたしに植え付ける。必死で生きていたはずの「わたし」を、もうわたし自身さえも覚えていないなんて。

 

でも、それでも。ここにはふたつの希望がある。

 

ひとつめは、わたしでさえ忘れてしまったような「わたし」を、覚えていてくれる誰かが存在しうるという希望だ。

わたしは高2・高3のころ、生徒会でもないのになぜかやたらと全校生徒の前で話す機会があったのだが、もちろんと言うべきか、話した内容なんてすっかり忘れている。どうせ稚拙な内容を偉そうに語っただろうから、思い出す気さえない。なのだが、去年ご縁あって高校の同窓会に顔を出したとき、2つ下の学年の女の子に不意に声をかけられた。「あの……◯◯会のときに前で話してらっしゃった先輩ですよね?あのときに先輩が、△△っておっしゃったこと、すごく印象深くて今でも覚えてます」。まぁ、驚いた。高3のときの話だから、もう何年も前のことだ。ああ、わたしが見失った足跡を見つめてくれている人は、予想だにしない場所にいるのだと、それは希望だと、心底思った。

 

ふたつめは、死んでしまった「わたし」も<わたし>も、一生思い出せずとも、元々いなかったことには絶対にならないということだ。

 

わたしは、かつてお付き合いをした、あるいは関係を持った男の子すべてにこう思っている。

「言っておくけど、わたしをこんな風にしたのあなただからね?」

あなたと出会って、愛して愛されて、そんでもってあの<わたし>は生まれたのよ?あなたとの関係に適応するために、[わたし]は<わたし>になったの。あなた、ちゃんとそれをわかって<わたし>を非難してるの?あなたの責任もちゃんと鑑みてよ、ねぇ。

ときを同じくして、こうも思っている。

「言っておくけど、あなたに変えられるような安い女じゃないから。」

たしかにさ、[わたし]は<わたし>に変わったよ。でもさ、『わたし』も“わたし”も【わたし】も《わたし》も、別にあなたに会う前から変わってないから。あなたによって人生狂わせるほどの女じゃないの、馬鹿にしないで。

でも、そんなメンヘラじみた思考の土台には、ちゃんとこんな思いがある。

「わたしを作ってくれてありがとう。あなたひとり欠けたら今のわたしはないよ、本当にありがとう」

覚えている・覚えていない、思い出す・思い出さないに関わらず、死んでしまった「わたし」も<わたし>も、現状生きている“わたし”も[わたし]も、一応わたしとして、内野すみれという名で呼ばれ生きてきたひとつの生き物として、脈々と積み重ねられ続けている。その重なりは唯一無二で、奇跡と呼んで差し支えないものだろう。あの偶然がなければ今のわたしはいない、それなら、忘れて半永久的に失われてしまった「わたし」も、どこかで、今のわたしの血肉になっている。それは、ささやかで最大の希望だ。

 

***

 

今しか紡げない言葉がある、というのは、こういうところに由来する。

今の<わたし>にしか言えない「好き」が、「ありがとう」が、「ごめんね」が、「ばーか」が、「幸せになってね」がある。

<わたし>が死んだとき、その言葉たちは徐々に手触りを失って、ただの単語になり、次第にそれ自体忘れられていく

そんな<わたし>の言葉を形にして残すこと、それが物書きとしてわたしの目指すところで、きっとその言葉たちが、いつかの“あなた”への希望になると、わたしは信じている。

 

……そんな気はなかったのにわたしのブログの宣伝みたいになってしまった、ねぇ。せっかくなのでリンクをこっそり貼っておきます。→http://aboutyou2015.com

 

***

 

谷口とは、「記憶」と「愛」について熱論を交わしていたはずなのだけれど、Twitterで見た限り谷口の昨日の終着点は『近代人は野蛮だ。』で、わたしが『いつも死んでいる。』だなんて、興味深い限りね。

 

久しぶりに秘密基地のブログを書きたいと筆を走らせて、早くも深夜3時前。

文章が下書き保存されていることを確認して、ブログのページを閉じる。現れたデスクトップは、新しい壁紙で彩られていた。

「あなたもそう、生まれ変わっていくのよね。」

 

 

以上、すみれでした。

 

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