あの日、原爆が落ちたということは、いま、思い出して祈るというのは、どういうことなのか?

黙祷をするのは、いつも決まって8時15分だ。

なぜなら、それが、原子爆弾が投下された時刻だから。

しかし、実はそれが事態をややこしくしているのではないか?

そもそも、何に対して僕らは祈っているのだろうか。

ただ、目を閉じて、「喪に服している」「良心的市民」を演じるために、祈っているのではないか。

広島でずっと生きてきた僕にひっかかっていた小骨を言語化すると、そのようになると思う。

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