プリント倶楽部と箱舟

 

のれんをくぐって、踏み台をのぼる。縦長の箱。粗い映像の中に、阿呆ヅラの自分が映っている。毒々しくて陽気な音楽。【プリント倶楽部へようこそ。】

何年も前の旧型機だった。使い古された、ソレ。

小銭が派手な音を立てて流れ込む。画面が切り替わる。無機質な声は高らかに述べる。

【この中から、溺れたい狂気を選んでね。】

風変わりで、ありきたりで、魅力的で、退屈で、とびきり甘美な狂気のフレームが並んでいる。青白い自分の顔に合うものを探す。上下しか移動できないボタン。フレームはたかだか数種類だった。ひとつを選ぶ。OK。

【この狂気でよろしいですか?】

確認の質問を最後まで聞かぬまま、力強くOKボタンを押す。

わたしは墜ちていく。舟の底。

 

 

***

 

 

<彼>が現れた。<彼>には長く付き合っている恋人がいる。あまりにも陳腐で滑稽なフレーム設定。しかしそれはもちろん“外”から見た話。舟の底の<彼女>は十分すぎるほどに酔っていた。

<彼女>は言う、「あなたに恋人がいるかどうかなんて、極論わたしにはどうだっていいことなの。あなたとわたしが見つめあうとき、わたしとあなたは互い以外のなにもかもから解放されるの。わたしとあなたの細胞は、ひとつ残らず同じ速度で呼吸しているの。おかげで、たとえあなたが箱舟の外でなにを考えていたって、なにに触れていたって、そこにはわたしが透けているのよ。だから、外のあなたがどう在ったってかまわないわ。わたしは外になんていない。いつだって舟の中であなたの帰りを待っている。わたしは常にあなたで満ちているのよ。わたしの言葉は、意思は、発する一瞬前にはもうすでにあなたに届いているわ。あなたには、そう、わかるでしょう?」

ふたりは手を握る。舟は揺れる。安っぽいシャッター音とともに。

 

{パシャッ}<彼>がわらう。はじめてのキス。地球の自転が止まる。

{パシャッ}<彼女>がはにかむ。はじめてのセックス。全身の水分が蒸発しては潤う。

{パシャッ}<彼>がわらう。肩を抱く手に握られた恋人のフィギュアは、どんどんななめに肥えていく。

{パシャッ}<彼女>がはにかむ。お世話になった人たちが合唱する爆音BGMは、どんどん金切り声になっていく。

{パシャッ}<彼>がわらう。<彼女>の頬をぶった後きつく抱きしめて、中指の指輪で肋骨を砕く。

{パシャッ}<彼女>がはにかむ。一瞬<あの人>がチラついたまぶたを、果物ナイフでひと息にかっ切る。

{パシャッ}<彼>がわらう。「世界中で、僕の孤独を分かち合えるのは君だけだ」と謳って。

{パシャッ}<彼女>がはにかむ。「大震災よどうかやって来て、いまあなたと死にたいわ」と囁いて。

{パシャッ}<あの人>、が、あざわらう。「ゆめは終わったよ、帰りな」。残り時間30秒。

 

<彼女>は慌てふためきながら、プリントアウトする写真を選ぶ。

「どうしてどうしてどうしてどうしてどうして?どうしてもう終わっちゃうの?わたしはこんなにもあなたで満ちてしまっているのに?あなたはどこに行くの、わたしはどこに行くの、終わらないよ、終わるわけないじゃん、見て、あなたとわたしのこの部屋はたくさんたくさん光に照らされて白く白く輝いてるじゃない?もっとここにいよう?ねえ、あなたしかいないの、トイレのパイプはフェミニストだよって、蝉は千切りになっても口紅を塗るよって、長雨の音が短距離走で3番になったよって、はじめて葉巻が四角いこどもを産んだよって、あんなたわいない話できるのあなただけなの、こんなにこんなにこんなにこんなに思い出もあるじゃない、ねえ、わたしは、まだ、」

 

<彼女>は<彼>がのれんの外に消えるのを見た。

ずいぶんと人間味を帯びた機械音が言う。【右の落書きブースに移動してね。】

「違うよ、<彼>は左に行ったんだから左のブースよ。」

――<彼女>は、箱舟が丸ごと変わってしまったことに気付かない。

 

【落書きタイム、スタート!】

「ほうら、まだ終わらないじゃない」。自信ありげな表情。不自然に痙攣する声帯。誰にも聞こえないような音量。「まだだよ。まだまだまだまだ。わたしはこの舟に乗ってなきゃいけないの。船上パーティーで踊り尽くさなきゃいけないの。まだまだ踊れるわよ、終わったりなんてしないわ。ゆめみたいな、ゆめみたいな、わたしの……」

画面の中で、<彼>と<彼女>はとても幸せそうに見える。

あはははははは、急な高笑いが箱の四隅まで舐め回す。

「ねえ、さいきんのプリクラってなんでもできちゃうんだよ。目を大きくしようね、お互いのことちゃんと見えるように。あなた、ショートヘアの方がすきなんだよね?わたしの髪の毛消しゴムで消しちゃおうか。ふふふふふふ、この瞬間はうつくしい嘘を纏うの、脚線美に脚色美、あの瞬間はとびっきりの意味を髪飾りに付けて……」

<彼女>は固まったふたりの笑顔に、きらきらいそいそふわふわずかずかじゃらじゃらひそひそごわごわ飾りをつけていく。落書き。そう、落書き。

もうすでに、自分がひとりであることに気付きさえせずに。

 

 

***

 

 

【プリントが終了しました。シールは取り出し口にあるよ。】

気付けばソレは終わっていた。わたしは吐き出された紙に手を伸ばす。

色鮮やかだったはずのフレームは、シールになってみるとやたらに濁った色をしていた。薄汚かった。

 

いったい、ここに写っているのは誰だろう。

ひとりで写っている男。加工に加工を重ねられて、神みたいに輝くこの男。

おそらくこれは、彼だったはずの、なにか。

 

わたしは、そこにわたしが写っていないことに愕然とする。

そしてなにより、わたしが立っていたはずの場所に彼が写っていることに、戦慄した。

 

遠くで、彼が呼んでいる気がする。わたしは振り向きさえできない。

彼をどんな風に見つめればいいのか、キスすればいいのか、抱かれればいいのか、もうさっぱりわからなかった。

正確に言えば、わからなくなる一瞬前にわたしは決めていた。

「しない。しない。しない。外に、出よう」。

 

 

音が戻ってくる。手触りが戻ってくる。さびれたゲームセンターの一角。けばけばしい箱。

 

わたしは船酔いで吐いた後のように、得体の知れない爽快さに包まれていた。同時に、怯えていた。

だいじょうぶ、いまはもう、揺れていない。一歩目を踏み出してみる。

 

【お忘れ物のないように。また遊んでね。】

 

冷えきった音が追いかけてくる。背中側の毛穴だけがぎゅうっと縮まった。

 

忘れ物。わたしはすっかり忘れてしまうだろう。きっともう忘れてしまっている。<彼>のことも、<あの人>のことも。漂流したゴミくずみたいに、遠く。沈没した豪華客船みたいに、尊く。

 

――せめて、あなたは、そしてわたしは、然るべきときまで残りますように。

 

「しばらく、さようなら」。

 

箱が遠ざかる。わたしが歩いているのは、地面だろうか、甲板だろうか。

 

 

コメントを残す